ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/11/7/6461/

メキシコ革命に関わった日本人移住者

1910年が終わろうとしていた頃、メキシコでは対照的な二つの出来事が起きた。その一つが、9月には盛大に行われた独立100周年記念式典である。そこでは、統一された近代国家をアピールされ、国民も喜びと愛国心に満ちていた。30年にわたり強い指導力で国を統治してきたポルフィリオ・ディアス大統領の願いが濃く現れたものであった。年老いた独裁者は、「独立の叫び(Grito de Independencia)」を行い、大規模なパレードを実施し、半円形のフアレス慰霊碑や独立記念柱等を建造させた。

もう一つの出来事は、独立100周年記念日で祝砲と色鮮やかな花火が打ち上げられてからわずか2ヶ月後、11月20日に起きた。この日、メキシコは銃や大砲の爆発音に包まれ、10年にも及ぶ内戦に突入した。革命が始まった瞬間であった。ディアス大統領主催により海外の来賓客を招いて行われた9月の式典や歓迎会で見た近代的なメキシコの姿の裏には、相反する現実が隠れていたのである。アメリカのジャーナリスト、ジョン・ケネス・ターナー氏が1908年のメキシコでの取材をもとにまとめた「野蛮なメキシコ(México Bárbaro)」にもあるように、社会にはびこる不正義と矛盾があまり表に出ていなかっただけだった。

ターナー氏は、オアハカ州のバジェ・ナショナルのタバコ栽培大農園で多くの農民が奴隷のように働き、生活している実態を取材し記事にした。また、メキシコ各地のサトウキビ畑や炭鉱などでも、労働者が悲惨な状況にあることを指摘した。そのバジェ・ナショナル付近には、ラ・オアハケーニャ(La Oaxaqueña)というアメリカ人資本家の大きなサトウキビ農園兼砂糖製造工場があり、ここには数百人の日本人移住者が入植していた。日本の熊本移民会社によってアメリカ大陸に送られた日本人移住者の一部だった。

この農園での労働条件はバジェ・ナショナルやその他の農園とまったく変わらなかった。日本人は契約労働として賃金や労働時間が定められていたにもかかわらず、その労働条件はほとんど遵守されていなかった。日本人は、1906年からこの農園に入植していたが、賃金は低く、労働時間は非常に長かった。しかし、何よりも厳しかったのは、40度を超える気温と非衛生的な労働・生活環境だった。蚊を介してマラリアになる者もおり、ついに日本人の犠牲者も出た。感染が広がり、高熱と嘔吐によって急遽マラリアで亡くなった人たちは、農園内につくられた墓地に埋葬された。

ラ・オアハケーニャ農園に今もある日本人移住者の墓地(荻野正蔵コレクション)

あまりにも過酷な労働環境だったため、多くの移住者はそこを脱出し、別のところに転住するようになった。田中(ホセ)ゼンゾウ氏と数人の日本人労働者はこの農園を後にし、列車に乗ってメキシコ北部へ向かい、新しい地域に定住した。そこで長年の努力を重ね、貯金をし、自分の店を出した1

メキシコ北部の鉱山は、南部の農園の労働環境と同じかそれ以上にひどかった。コアウイラ州のラス・エスペランサス炭鉱では、発破による崩落で多数の日本人労働者が命を落とした。どの労働者もいつも死と背中合わせで働いていた。有名なソノラ州のカナネア鉱山では、1906年に労働者が大規模なストライキ2を起こし、賃金アップと労働条件の改善を強く求めた。しかし、こうした抗議は武力によって容赦なく鎮圧された。外資系企業やこれらの資源開発を擁護していた独裁者ディアス大統領への労働者らの不満は、既にピークに達していたのである。この鉱山でもかなりの日本人移住者が働いていたが、そこには狩野タンジロウ・ケイゾウ兄弟もいたという。

移住者たちはこうした困難以外にも、1910年11月に首都南東部のプエブラで発生した反乱によって勃発した革命の影響を受けることになる。辞任を余儀なくされたディアス前大統領は海外に亡命するが、武力による対立は収まらず内戦は全国的に拡大した。移住者の生活にも様々な支障が出るようになり、日本大使館はメキシコ政府に邦人の生命と資産の保護を求めたが、実際政府はこの約束を守れる状態ではなかった。

特にメキシコ北部の戦闘は非常に激しかった。日本政府は、チワワ州に居住していた日本人移住者の命と財産を守るため、急遽、外務省の馬場称徳(しょうとく)氏を派遣して、直接フランシスコ・‶パンチョ″・ビジャ将軍と移住者の安全を交渉した。しかし革命による闘争は激しくなる一方だったので、馬場氏はアメリカのカリフォルニア州カレシコ市へ数百人の移住者の受け入れを認めさせた。当時、カレシコ市の綿花農場は人手不足が深刻で多くの労働者を必要としていたのだ。

馬場称徳氏。日本政府を代表してパンチョ・ビジャ将軍との交渉役(セルヒオ・エルナンデス氏所蔵コレクション)

一方、多数の日本人移住者はメキシコに留まり、各地で編成された革命軍に入隊する者もいた。例えば、西野ツルオ氏は、パンチョ・ビジャ将軍の個人コックになったと伝えられている。また、ディアス政権のときに柔道の指導員としてメキシコにやってきた原田シンゾウ氏は、ディアスの亡命後は、ベヌスティアノ・カランサ、エミリアノ・サパタ、そしてフランシスコ・ビジャの兵士らに武術をを教えた。そして、ラ・オアハケーニャ農園から逃げ出したあの田中ゼンゾウ氏も北西部の軍隊に入隊して、奇兵隊の中尉にまで昇進した。

革命後、彼らの活躍ぶりは誰もが認めるところとなった。例えば、中原エミリオ氏は二等軍曹として、そして山根アントニオ氏はカランサの護憲革命軍の一等大尉に抜擢された。

パンチョ・ビジャ将軍の部隊にいた野中金吾氏の逸話は息子の野中ヘナロ氏によって記録されている3。金吾氏が写真やメモをたくさん残してくれたおかげで、福岡出身の彼は1906年、叔父と一緒にメキシコに入国したことがわかっている。当時16歳で、叔父とともにラ・オアハケーニャ農園で働いた。しかし、あまりの過酷さと非衛生的な環境ゆえに叔父はマラリアで入植から数ヶ月後に亡くなってしまった。そんな中、野中氏と多数の日本人移住者はアメリカ入国を目指してメキシコ北部に向かうが、その目的は達成できず、チワワ州のシウダー・フアレス市に留まって定住することを決意し、種子と飼料の店を開店する。しかし、革命によって経済情勢が悪化し、山賊が多発したため、経営が成り立たなくなった。仕事をなくした野中氏は、地元の市民病院に採用され、のちに看護助手まで昇進する。各地が戦闘状態だったため、仕事が非常に多く、現場で多くのことを学ぶことができたため、野中氏の手術補助や医療処置技術は普通の看護師のスキルよりはるかに高かった。

北部師団の奇兵隊第一大尉の野中金吾氏、1915年12月。(野中ヘナロ氏所蔵コレクション)

1911年3月、野中氏は同胞に会いにカサス・グランデスという村を訪れた。その時、連邦軍とフランシスコ・マデロ軍との闘争に遭遇した。マデロ将軍は敵の手榴弾の破片で負傷し、野中氏がその処置に当たった。その結果、マデロ軍に入隊することになり、その年の5月に展開したシウダー・フアレス市の奪還と占領に関わった。連邦軍は敗退し、その結果ポルフィリオ・ディアス大統領は辞任に追い込まれ、マデロ将軍が大統領になった。このシウダー・フアレス市の戦いが終わった後に、野中氏は市民病院の看護師部長になり、戦闘で負傷した多くの兵士の治療に当たった。

野中金吾氏は、病院の職員のことをよく把握していたため、パンチョ・ビジャ将軍に頼まれてより優れた医師や看護婦を引き連れチワワ州に向かった。そこで、ビジャ将軍の本体と合流し、「移動巡回医療班」として同将軍の北部遠征に同行した。これはマデロ大統領を殺害したビクトリアノ・ウエルタ将軍が支配していた地域を奪還するための軍事作戦だった。野中氏は一等大尉として、メキシコ革命を左右する北部師団による重要な戦いの数々を目にした。今日、伝説ともいうべき最も有名な写真の一つが、パンチョ・ビジャ将軍と一緒にいる野中金吾氏の写真である。二人とも馬に乗っており、金吾氏は多くの負傷者を運んでいる救急馬車にいる。

北部師団を指揮しているフランシスコ・ビジャ将軍で、その右側の馬車にいるのが野中金吾氏。1914年4月、トレオンを奪還したとき。

日本人移住者は、メキシコ史における重要な時代の一部を担っており、彼らの活躍は少しずつ明るみになってきたばかりである。

注釈:

1.田中氏と息子レネー田中博士の生涯は、セシリア・レイエスによる“La gallina azul(青い鶏)”(Editorial Ítaca, 2014)を参照。

2. “Kingo Nonaka, Andanzas Revolucionarias”(Editorial Artificios, 1914)に野中金吾氏のことが描かれている。

 

© 2016 Sergio Hernández Galindo

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執筆者について

セルヒオ・エルナンデス・ガリンド氏は、コレヒオ・デ・メヒコで日本研究を専攻し、卒業した。メキシコやラテンアメリカ諸国への日本人移住について多くの記事や書籍を刊行している。

最近の刊行物としてLos que vinieron de Nagano. Una migración japonesa a México [長野県からやってきた、メキシコへの日本人移住]  (2015)がある。この本には、戦前・戦後メキシコに移住した長野県出身者のことが記述されている。また、La guerra contra los japoneses en México. Kiso Tsuru y Masao Imuro, migrantes vigilados(メキシコの日本人に対する戦争。都留きそと飯室まさおは、監視対象の移住者) という作品では、1941年の真珠湾攻撃による日本とアメリカとの戦争中、日系社会がどのような状況にあったかを描いている。

自身の研究について、イタリア、チリ、ペルー及びアルゼンチンの大学で講演し、日本では神奈川県の外国人専門家のメンバーとして、または日本財団の奨学生として横浜国立大学に留学した。現在、メキシコの国立文化人類学・歴史学研究所の歴史研究部の教育兼研究者である。

(2016年4月更新)

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