ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/1/25/nahan-gluck/

ネーハン・グラックさん

(写真:濱アリス)

ボランティアのガイドとして、ネーハンさんはプライド、思いやり、そして信念をもってツアーを先導している。ツアーをする彼を見て、多くの人が驚き、ひょっとしたら少し目新しく感じるのは、彼のルーツが日本に全くないからだ。

ニューヨークで生まれたネーハンさんは、6歳の時にカリフォルニアへ移った。1950年代の一つの偶然の出会いが、彼が想像し得なかった形で彼の人生を変えることになる。日系二世のカズト・ヒラタさんと出会ったのだ。この出会いが、彼が日系アメリカ人の歴史に興味を持つきっかけとなった。

彼らは親友になった。カズさんが第二次世界大戦中にローワー収容所に送られたと知ったときのことについて「本当に驚いたよ。だって彼は二世だから」とネーハンさんは言う。朝鮮戦争に従軍したネーハンさんには、何もしていないのにアメリカ国民が収容されるということが理解できなかったのだ。

二人の間の友情は60年以上にわたって今日まで続いている。カズさんは1957年に結婚し、その翌年にネーハンさんも結婚した。ネーハンさんによれば、カズさんの4人の子供は彼の2人の子供といっしょに育ったという。

電気工学の学士を取って大学を卒業した後、ネーハンさんはロサンゼルス郡の度量衡部に配属された。そして38年務めた後、課長補佐であった彼は同部を退職した。

ネーハンさんと妻のキャロリンさんが、カズさんと妻のアリスさんとともにリトルトーキョーのレストランにいた際、アリスさんがネーハンさんに、「あなたは収容所の全てを知っているわよね。実際に見たことはあるの」と尋ねたという。それは1993年の暮れのことで、その後カズさんとアリスさんは彼らを全米日系人博物館へ連れて行った。現在パビリオンと呼ばれる本館のあった場所はその頃はまだ駐車場で、そこには当時ハートマウンテン強制収容所にあったバラックが展示されていたのだ。

またアリスさんは、ネーハンさんが退職したということで、博物館でボランティアをすることを提案した。ネーハンさんは「彼らが僕を受け入れるのかい」とその案を笑った。それがアイルランド生まれの母とドイツ系の父の間に生まれた彼の正直な反応だった。

アリスさんは次の土曜日に、博物館の次の展示である「明日への戦い」についての講演があるということを伝えた。ネーハンさんはそれに出席し、そこで第442連隊戦闘団について、そして彼らがいかに勇敢で忠誠心と愛国心に溢れていたかを深く学んだ。中には一度収容された者もいて、これらの男たちが戦いに志願したのは、想像しがたいことだった。「ここには、何もしていないのにも関わらず、敵に似ているというだけで強制収容所に入れられた12万ものアメリカ国民がいます。これは信じがたいことです」

(写真:濱アリス)

ネーハンさんは、1994年の初頭にボランティアをはじめ、「私はそれ以来ここにいます」という。約21年経った今、ネーハンさんは言う。「ここは素晴らしい場所です」

ネーハンさんは、年配の人々に話しかける機会があるときにやりがいを感じることがあるという。例として、「年配のグループが来ているとき。60歳以上で、ほとんどが白人の場合です」とネーハンさんは説明する。「・・・彼らは私にこう言うんです。『アイルランド人やユダヤ人、イタリア人であった私たちの親がヨーロッパから移住してきたとき、彼らもまた人種的偏見を経験したんだ。だから日系人のことだって別にたいしたことじゃないだろう』と。そこで私は彼らに法律のことを教えます。ヨーロッパ移民のケースとアジア移民のケースとの違いは法律なのです」

以下は彼が挙げた法律の一部である。

  • 1882年 「中国人排斥法」-アメリカへの移住を制限した最初の法律
  • 1790年 「帰化法」-帰化する権利を《自由で良い人柄を持つ白人》に限定
  • 1913年 「カリフォルニア州外国人土地法」-《外国人》が農地を所有することを禁止
  • 1922年 「ケーブル法」-非アメリカ市民の男性と結婚した女性の市民権をはく奪

ネーハンさんはまた、アメリカ陸軍情報部にも畏敬の念を抱いている。「当時太平洋に行って文書の解釈と翻訳、そして捕虜の尋問までも手伝うことを想像できますか」と彼は言う。「敵に似ているその兵士が、どれだけ勇敢でなければいけなかったか、あなたは想像できますか」

ネーハンさんは、将来の世代が、博物館の声明で述べられている「アメリカの民族的、文化的な多様性の理解と正しい認識を深める」という目的をもって日系アメリカ人の歴史を学ぶことができるようにと願っている。

(写真提供:全米日系人博物館)

 

* 本稿は、 日刊サンの濱アリス氏がインタビューをし、そのインタビューを元に、ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へキャシー・ウエチ氏が執筆したものです。また、ディスカバーニッケイへの掲載にあたり、オリジナルの原稿を編集して転載させていただきました。

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© 2015 The Rafu Shimpo

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このシリーズについて

このシリーズでは、ニットータイヤからの資金提供を受け『羅府新報』が出版した冊子「ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々 (Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum)」から、全米日系人博物館ボランティアの体験談をご紹介します。

数年前、ニット―タイヤはロサンゼルスの邦字新聞『日刊サン』と共同で全米日系人博物館(JANM)のボランティアをインタビューしました。2014年末、これらのインタビューを小冊子にまとめるべく、ニットータイヤから私たち『羅府新報』に声がかかり、私たちは喜んで引き受けることにしました。JANMインターン経験者の私は、ボランティアの重要性や彼らがいかに献身的に活動しているか、そしてその存在がどれほど日系人の歴史に人間性を与えているか、実感していました。

冊子の編集にあたり、私は体験談ひとつひとつを何度も読み返しました。それは夢に出てくるほどでした。彼らの体験談に夢中になるのは私だけではありません。読んだ人は皆彼らの体験にひきこまれ、その魅力に取りつかれました。これが体験者本人の生の声を聞く醍醐味です。JANMのガイドツアーに参加する来館者が、ボランティアガイドに一気に親近感を抱く感覚と似ています。ボランティアへの親近感がJANMの常設展『コモン・グラウンド』を生き生きとさせるのです。30年間、ボランティアが存在することで日系史は顔の見える歴史であり続けました。その間ボランティアはずっとコミュニティの物語を支えてきました。次は私たちが彼らの物語を支える番です。

以下の皆様の協力を得て、ミア・ナカジ・モニエが編集しました。ご協力いただいた皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。(編集者 - クリス・コマイ;日本語編者 - マキ・ヒラノ、タカシ・イシハラ、大西良子;ボランティアリエゾン - リチャード・ムラカミ;インタビュー - 金丸智美 [日刊サン]、アリス・ハマ [日刊サン]、ミア・ナカジ・モニエ)

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執筆者について

『羅府新報』は日系アメリカ人コミュニティ最大手の新聞です。1903年の創刊以来、本紙はロサンゼルスおよびその他の地域の日系に関わるニュースを日英両言語で分析し、報道してきました。『羅府新報』の購読、配達申し込み、オンラインニュースの登録についてはウェブサイトをご覧ください。

(2015年9月 更新)

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