南三陸町での最後の日、私たちワールド・イン・東北の小グループは、2011年3月11日の地震と津波で壊滅的な被害を受けた町の中心部の沿岸地域を巡るツアーに申し込みました。
それまで私たちは、献身的で刺激的な社会起業家のグループの組織を成長させる方法についてブレインストーミングに没頭していました。彼らはとても前向きで生き生きしていたので、彼らのベンチャーのいくつかを生み出した自然災害の規模を直感的に理解するのは困難でした。私は、約 22,000 人が死亡または行方不明となった災害の影響についてもっと知り、進行中の復興の状況を自分の目で見たいと思っていました。
津波に関する記事を読んだことがあるが、生存者たちは湾のはるか遠くに「白い線」が見えたが、その直後にその線は巨大な破壊の壁に変わり、彼らに向かって押し寄せてきたと語っていた。高さ 30 フィートにも達したあの恐ろしい波は何を引き起こしたのか、そしてその場所には何が建てられたのか。
ガイドの工藤さんは、私たちのリトリートが開催されたコミュニティセンターで私たちと会い、何が起こったのかを悲痛な映像と概要で説明してくれました。元保険会社員の工藤さん(44歳)は、自分は幸運だと思っています、と話してくれました。1,200人以上の町民が犠牲になった中、自分と妻、そして4人の子どもは全員助かったのです。
彼と彼の家族は南三陸町から避難した9,746人のうちの一人であり、今も仮設住宅に住んでいた約3,100人のうちの一人である。しかし、他の多くの人々と違って彼の家族は無事だったので、それは問題ではなかった。
原子炉メルトダウンの現場となった福島の海岸から90マイル以上離れた南三陸町では、政府や国民の支援、そして漁師たちが団結して機材を共有し、互いに支え合う姿勢のおかげで、漁業、貝類養殖、海藻採取が復興に向かっている。
工藤さんはその後、私たちをかつての町の中心部まで車で連れて行ってくれました。そこは今も巨大な建設現場であり、クレーンや新しい堤防を建設する際にできた巨大な土の山、ヘルメットをかぶった建設作業員とその車両が点在していました。私たちの目の前には、悲しそうな表情の地蔵菩薩を中心にした神社があり、亡くなった人々のために花束や酒、ビール、お茶の瓶が供えられていました。
工事現場を横切る道路のすぐ向こうには、錆びた骨組みだけの建物が立っていた。市の旧防災センターだ。津波警報が鳴ったとき、近くの役場の職員が3階建ての建物に逃げるのを見たが、高台に避難したほうが賢明だと工藤さんは判断したという。彼の判断は正しかった。屋上にたどり着いた役場職員約50人のうち、津波が屋上を襲ったときに生き残ったのはわずか10人だった。生き残った人の中には町長もおり、亡くなった人の中には防災センター職員で、津波に流されるまで勇敢にも町の拡声器で津波警報を放送し続けた遠藤美紀さん(25歳)もいた。
工藤さんは、町民にとって、家族が被った損失を痛烈に思い出させる足場が取り壊されることを望んでいると語った。宮城県は別の見解で、建物の外壁は記念碑として、また何が起こったかを思い出させるものとして残したいと考えている。今のところ、県が20年間建物を維持し、その後、その運命が決まるという取り決めになっている。
次に私たちは、町の公立学校が3校ある町の高台へ向かった。ある学校では、マグニチュード9.0の地震が南三陸に到達した午後2時48分で時計が止まっていた。ここは町の指定避難所の一つで、翌日の卒業式の準備が進められていた。工藤さんは、私たちが立っていた丘の上の校庭の端まで教師と生徒が歩いてきて、安全な場所だと思って近づいてくる津波を見ていたと話してくれた。しかし、海岸沿いの地形のため、津波の一部が町を包み込み、背後から襲い掛かり、2人とも亡くなった。
地震警報の頻繁な発令と、2010年にチリで発生した地震による津波(規模ははるかに小さいが大げさに報じられていた)に油断していた町民の多くは、警報に十分迅速に対応できず、遭難した。しかし工藤さんは、今では誰もが「過大評価すること、最悪の事態を想定することの大切さ」に気づいていると言う。
悲惨な詳細が次々と語られる中、工藤さんは最後に、より幸せなイメージを伝えたいようだった。水に囲まれているのに、水が十分でないという皮肉な状況を思い出した。もちろん、震災直後は電気も通っていなかったが、水不足はもっと深刻だった。「4人家族で1日2杯しか水がなかった」と工藤さんは語った。幸いだったのは、被害を免れた近くの観洋リゾートホテルの温泉に4日ごとに入ることができたこと。「あれが私たちにとって最も幸せな瞬間でした」と工藤さんは語った。
*この記事はもともと2016年9月2日にWalking and Talkingに掲載されたものです。
© 2016 Nancy Matsumoto