ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/04/01/

春日光子の短歌への情熱、メキシコと日本への思いを綴る

小坂(おさか、旧姓)光子は、長野県伊那市で1914年に生まれた。小坂家の四人姉妹の二女で、同家はかなり裕福な農家だった。父親は、養蚕と米栽培に従事し、生糸業者組合の会計責任者だった。当時、日本にとって絹糸は有力な輸出商品の一つで、長野県でも何十万世帯が養蚕家であった。光子はその様子をこのような短歌で表している。

桑の香の
たつ蚕室(さんしつ)に
給桑(きゅうそう)の 
母若かりし
美しかりし1

光子の幼少期は大正時代(1912-1926)で、自由主義的、民主主義的空気に包まれていた。この精神や考え方は大正デモクラシーとして知られており、光子の人生に大きく影響したようである。彼女は、地元の女学校に通い、校長の指導によってかなり進歩的な環境で教育を受けた。修学旅行がまだ一般的でなかった頃、光子はみんなと日本の地方を訪れ、横浜や神戸を散策した。学生として、活気ある国際都市に触れたのである。

メキシコに発つ前の光子さん(春日家コレクション)

その当時の雰囲気をよく表現している『青鞜(せいとう)』という文学誌があった。その雑誌では、女性を他の光を反射して輝く月にたとえており、女性に秘められた様々な才能を引き出そうと呼びかけたのである。光子も、メキシコに移住した後に、自分に秘められていた文学的な側面と能力を、発揮したといえる。

光子の性格や想像力は、多くの試練を乗り越えることで身につけられた。1926年には、父が役員だった養蚕組合で職員による大きな横領事件が発生し、会計責任者として父は、自身の資産を売り払って穴埋めをしなければならなくなった。その翌年、母親が亡くなり、光子は大きな衝撃を受けた。この二つの出来事は、それまでの光子の裕福な生活を一転させた。女学校を退学し、家事や養蚕の仕事を手伝うことになったのである。

数年後、追い討ちをかけるように長野県だけではなく日本全国の各種業界の生産者及び農家は大きな経済的打撃を受けた。1929年ニューヨーク証券取引所の株価大暴落の影響である。この世界経済を揺るがした事件は、絹や綿花、織物のほとんどをアメリカに輸出していた生産者にとっては計り知れないほどの大打撃を与えた。世界中で、何万という繊維工場が閉鎖に追い込まれ、日本の生産者も重要な販売先(海外顧客)を失ってしまった。当然、農家や業者の収入は激減し、それまでの売り上げの5分の1以下になった。長野県でも、多くの世帯では飢えと失業で悲惨な状況に陥った。

その結果、多くの農家や一般労働者はやむを得ず海外移住を選択しなければならなくなった。春日勉(つとむ)もその一人で、1930年に長野県を出発し、メキシコを目指した。春日氏は、もともと、姉の一人が既に移住していたアメリカ合衆国を希望していたが、1924年に成立した差別的法律ゆえに、日本人移民の入国は完全に禁止されていた。そのため春日氏は、20世紀初頭に移住していた同県人の諸先輩がいたメキシコを選んだのである。

はじめの一年は、タマウリパス州(メキシコ湾に面している中東部地区)のタンピコ港近くの農家で働き、その後は中部のサンルイスポトシ州のセリートス町にある岩垂貞吉(いわだれ・ていきち)氏の、当時とても繁盛していた店で働くようになった。

1935年頃には、春日氏も25歳になり、そろそろ家庭を持つ時期だと考えていた。長野県にいる親戚に、メキシコに嫁いでくれる女性を探してほしいと頼んだ。その話が光子に届き、覚悟を持って結婚を承諾した。家族と離れること、そしていつ日本へ帰って来れるか分からないことは、当然大きな不安ではあった。長い船旅とはいえ、準備したのはトランク一個だけで、最低限の衣類、日本の国旗日の丸と、書籍だけだった。若いときから短歌や俳句が好きであったが、その文学的才能がいずれメキシコで大きく開花するとはそのときは夢にも思っていなかったに違いない。光子は日本を離れた後、この短歌を書いている。

人に背き
海を渡りし
そが為と
悲しき時は
自らあきらむ

同じ船には、遠藤姉妹が乗船していた。遠藤姉妹と面識はなかったが、偶然にも光子と同じようにセリートス町在住の日本人移住者に嫁ぐために渡航していた。太平洋沿岸中西部のコリマ州マンサニージョ港には、遠藤姉妹の一人の夫となる山崎貞男氏が迎えに来ていた。

遠藤姉妹の一人と一緒にいる光子(前の列左側に座っている)、楽洋丸(Sergio Hernándezコレクション)

セリトスに到着後、光子は、披露宴もなくさっそく仕事に就いた。夫が働いていた店を手伝いながら農業の仕事もした。店では、サンダル、帽子、衣類、農具等を販売していたが、何百人という顧客の対応に追われるうちに、あっという間にスペイン語も上達した。コミュニケーションを容易にするため、光子はエスペランサという名前で呼ばれるようになった。

写真右端に光子さんと勉さん。岩垂氏の事業所で働いていた他の日本人移住者と(唐沢家コレクション)  

メキシコに到着して一年後、働いていた店で助産婦の助けによって6人兄妹の長男カルロス剛(つよし)春日を出産した2。数ヶ月後、同じ州のカルデナスという町に引っ越し、春日氏は自分の食料雑貨店を開店した。店は繁盛し、近場を配達できる車を購入し、二年後には町中心部の土地に店と自宅を構えることができた。1941年までに、更に二人の子供をもうけていた。

その年の12月に日本軍が真珠湾を攻撃した。そのニュースはメキシコの日系社会にも大きな衝撃を与え、懸念と不安が高まった。光子は、その知らせを聞くとすぐに夫にも知らせ、今後、店の継続は難しくなるかもしれないと話した。しかし、その心配とは裏腹に、店の客である地元のメキシコ人は、日米開戦を祝福してくれた。メキシコはそれまで何度もアメリカ合衆国によって痛い目にあわされていたので、反米感情を抱いていたのである。ちょうどその3年前にラサロ・カルデナス政権がアメリカやイギリスの石油会社を締め出したことがあったが、その時もメキシコ国民はその大胆な措置を支持していた。

アメリカは、中南米諸国の日系移民に対して制裁を求めた。メキシコに対しては、すべての日本人を中部地域に強制移転させ、国境地帯から離れさせるよう強く要請した。1942年、春日家はメキシコシティへの移転命令を受けた。すると、カルデナスの町長や近隣住民は、連邦政府に対して、その移動命令を撤回するよう嘆願してくれた。日本人はまじめで、勤勉であるということ以上に、大事な住民として認めてくれていたのだ。春日家が汽車でメキシコシティーに行く晩、友人や知人だけではなく町長までが別れを告げにきてくれた。光子はこのことにとても感動し、涙しながらその友情と信頼に感謝して町を後にした。この出来事を機に、光子は外国人移民ではなく、メキシコ社会の一員と自覚するようになった。

首都への移動は、春日家にとってメキシコでの再スタート、すなわちゼロからの移住生活を意味した。幸運なことに、メキシコシティには全国からたくさんの日本人が集まったので、組織を促進し、互いに密接に協力できる仕組みを築くことができた。メキシコシティーの各地に子供たちが日本語を勉強できる学校を設立することもできた。

戦時中、春日勉氏は、野菜を販売しながら家族の生計を立てていた。この大変な時期について、光子は短歌を詠み、苦難の中でも楽観的で前向きなメキシコ生活を描いている。

嫁ぎ来て
十年経にけり
貧しくも
五人の子らに
心満つ今日

1945年に終戦になると、メキシコ政府は元の居住地に戻ることを許可したが、ほとんどの日本人はメキシコシティーに残ることを選択した。地方よりも首都にとどまったほうが、子弟の高等教育も可能になると考えたからである。春日夫妻は、カルデナス町の家を売却し、その資金で山崎家とともにメキシコシティーで菓子類の店を開店した。この事業は成功し、数年後には二店舗目をオープンした。光子は、地元のアンズを乾燥させそれを塩漬けにして、メキシコ版梅干しを作り販売した。これは、今もメキシコ人に親しまれているチャモイのことである(フルーツを酸味のある甘辛い調味料で味付けする)。

光子は、妻として夫の仕事を手伝うだけでなく、子供の教育にも大変熱心だった。住んでいたタクバヤ地区の日本人子弟の日本語教育にも尽力し、はじめは自宅を仮の日本語塾として提供し、教員や適切な場所不足という理由で、子供たちがクラスを受けられないといったことがないよう気を配った。

春日家の自宅で日本語を学ぶ日系の生徒たち(春日家コレクション)  

1950年代の後半、春日家は新しいビジネスに挑戦した。それは膨らますことのできるビニール玩具の製造である。他の日本人仲間と出資してKayという工場を設立した。これが大当たりした。売り上げも順調に増え、他の中南米諸国に輸出するようにまで成長した。

1968年のメキシコオリンピックの開会式の時、春日家の造った五輪が空高く飾られた。光子は、このために尽力した夫及び子供たちのことをとても誇らしく思ったという。メキシコがオリンピックの開催地に選ばれたことは、とても喜ばしいことで、まるでメキシコ人であるかのように感動した。

ウィツゥラコチ
かぼちゃんの花の
ケサディーヤ3 
愛でてメヒコの
人となり行く

その後、光子はたくさんの幸せに包まれて過ごしていたが、悲しい出来事もあった。春日家は大きくなり、孫の顔を見ることもでき楽しみが増えたが、1972年に、日本にいた父親が亡くなってしまった。父の死に心をとても痛め、長く日本から離れていたことで忘れかけていた里恋しさが前にも増してこみ上げたのである。

海に日の
沈む一点を
見つめいき
父母既に亡き
故郷は遠し 

それから一年後、突然夫の勉が亡くなってしまった。あまりにも急な出来事で、大きな事業が未完成のまま残っていた。その事業とは全日系社会のための学校の建設であった。日本とメキシコの文化教育を提供することで二国間の関係を密接にし、日系人だけでなく、非日系のメキシコ人にも門戸を開いた教育機関の設立を試みていた。社会への恩返しという気持ちもあり、光子と子供たち、そして日本人移住者は1977年に日本メキシコ学院(通称リセオ)を開校した。メキシコシティーでもっとも有力な教育機関になった。

そして1987年、光子は日系社会への貢献が評価されて、天皇陛下から叙勲を受けた。光子の短歌は、朝日新聞にも掲載されており、メキシコだけではなく日本でも知られていた。宮内庁も、光子の才能を、「あかね」のペンネームで書かれた短歌を通して高く評価していたのである。

あかね(茜)という名のように、光子は2002年に夕陽が沈んでいくかのようにこの世を去った。移民として受入れてくれた、そしてあたたかく包んでくれたメキシコ社会に大きな足跡を残したのである。

ポポの嶺を4
真向かひにして
コスモスの
咲きみつ丘を
墓地ときめたり 

注釈:

1. 光子の短歌は、近葉愛子氏によって編集された『「あかね」—在メキシコ日系移民・春日光子とその短歌』(スペイン語訳 “Akane -  Los Tankas de Mitsuko Kasuga, migrante japonesa en México”Artes Gráficas Panorama, 2015)という作品に収録されている。2016年4月から、英語版もAmazon.com等で販売されている。

2. カルロス剛春日氏は、メキシコ日系社会でも最も有力なリーダーである。パンアメリカン日系人協会の創設者の一人で、この団体の会長職も務めた。

3. ケサディーヤ(quesadilla)とは、トルティーヤでチーズ、野菜、花、煮込んだ肉を包んだ料理で、ウィツゥラコチ(Huitlacoche)は、トウモロコシの穂に生殖する食用キノコのことである。

4. ポポ(Popo)とは、メキシコ人が親しみをこめて指すポポカテペトル火山のこと。

 

© 2016 Sergio Hernández Galindo

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執筆者について

セルヒオ・エルナンデス・ガリンド氏は、コレヒオ・デ・メヒコで日本研究を専攻し、卒業した。メキシコやラテンアメリカ諸国への日本人移住について多くの記事や書籍を刊行している。

最近の刊行物としてLos que vinieron de Nagano. Una migración japonesa a México [長野県からやってきた、メキシコへの日本人移住]  (2015)がある。この本には、戦前・戦後メキシコに移住した長野県出身者のことが記述されている。また、La guerra contra los japoneses en México. Kiso Tsuru y Masao Imuro, migrantes vigilados(メキシコの日本人に対する戦争。都留きそと飯室まさおは、監視対象の移住者) という作品では、1941年の真珠湾攻撃による日本とアメリカとの戦争中、日系社会がどのような状況にあったかを描いている。

自身の研究について、イタリア、チリ、ペルー及びアルゼンチンの大学で講演し、日本では神奈川県の外国人専門家のメンバーとして、または日本財団の奨学生として横浜国立大学に留学した。現在、メキシコの国立文化人類学・歴史学研究所の歴史研究部の教育兼研究者である。

(2016年4月更新)

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