“Wow! Mom look at that guy juggling so many balls!”
小さい男の子の声が耳をかすめる。まだ練習したての僕のジャグリングに喜んでくれるのはうれしいが、やっぱり少し恥ずかしく、くすぐったいような気持ちだ。そして、またいつものように、リトル東京の街角を人が過ぎゆき、僕は風景の一部になって時間だけが過ぎる。浅黒くなった肘から先がまるで別の生き物のように、目まぐるしく落ちてくるボールを拾いにいく。この時ばかりはカリフォルニアの太陽がもう少し柔らかかったらいいのにと思ってしまう。
身体は、いっぱしのジャグラーの演技をしたまま、僕の心は東京を旅立ち、ここロサンジェルスに来てからの様々な思い出を、勝手にぐるぐるとさまよっていた。会社を辞めると告げた時の上司の驚いた顔。家族が渡米を反対する中で、唯一成田空港まで見送ってくれた祖母との最後の握手。
「見送りがおばあちゃんだけで、ちょっとさみしいよね。すまないね、お前のお父さんは頑固だから。でも、翔ちゃんならきっと夢をかなえると信じているよ。がんばりなさいな。」祖母は最後まで味方でいてくれる。僕もなるべく平然を装った。
「お父さんの反対はもっともだよ。会社を辞めて、趣味程度に続けてきたジャグリングパフォーマンスのの勉強のためにカリフォルニアに行きたいなんて、正気の選択じゃないもの。でも、もう決めたことだから。日本に帰ったら、プロのパフォーマーだからね。期待してて!」
次の瞬間、僕の記憶は、その後のパフォーマンスの修行へとジャンプした。初めて会うクラスメイト。中にはもうステージに立っているコメディアクターがいたり、体がばねのように柔らかいタレントのある女性パフォーマーもいた。そんな中で、自分は人前でパフォーマンスをしたこともなく、ジャグラーのちゃんとした勉強もしたことがない。ただ、自分でもわからないが、球を操っているときはまるで時間がゆっくり過ぎるような、違う世界に迷い込んだような感覚に魅せられてしまったのだ。それは、自分にとっては、人生で感じたことのない魔術にかかったような恍惚とした感覚だった。だからジャグリングはかけがえのないものだし、パフォーマーになる夢は今も変わらないけれど、時折襲ってくる夢は夢のままでかなわないかもしれないという恐れが自分の顔から笑顔を奪っていった。でも、こうして何とか週末には街角に立って、自分の夢を奮い立たせていた。
* * *
どれくらいの時間がったただろうか。ジャパニーズ・ビレッジ・プラザの往来を行く人の数からいって日曜の遅いランチタイムになったようだ。時計を見ると午後1時30分。毎週、ここに立っていると、行き交う人の感じから時間がおおよそわかるのが自分でも面白かった。いつもはここからがストリートパフォーマンスの佳境に入るのだが、今日は日差しのせいか、ただのメランコリーか、あまり身が入らなかった。
「さてと、今日はここで少し休憩しよう。」そう思ってベンチに腰を下ろした瞬間だった。
「すみません!もしかして日本人の方ですか?」自分よりは一回り年上かといった女性が話しかけてきた。久しぶりの日本語に、思わずすべての力が抜けたように条件反射で答えた。
「はあ。そうですが。」
「よかった。私あまり英語ができなくて。私、今旅行中なんですが、ジャパニーズアメリカン・ミュージアムってこの辺ですか?」
「はい。すぐそこですよ。僕はいまからランチに帰るとこで、もしよかったら途中だから入口まで案内しますよ。私はまだ中を見学したことがないんですがね。どういうわけか。ここから目と鼻の先だし、一度は行きたいんですが。」
「そうなんですか?よく日焼けされてるからカリフォルニアが長い方と思ったけど。あ!突然ですけど、もしよかったら一緒に行きません?私も一人で行くより誰かと一緒のほうが楽しいから。ね?実はチケットがよけいにあるのよ。」
いつもは、こういう唐突な誘いには乗らない主義なのに、この時はなぜか断り文句が出てこなかった。今思うと、追いかけてきた夢が遠いことを知って以来、ただルーチンのように街角にてってパフォーマンスをするだけの生活に嫌気がさしていたのだろうか。
* * *
ミュージアムの中に入ると、今までの暑さがうそのようにひやっととした心地よい空気が流れた。「案内してきた甲斐があった。たまには親切が報われるんだな」、と思いほくそ笑んだ。彼女はスタスタと館内を歩き、まるで館内を知っているかのように、2階へと続く階段へと進んだ。
「上に、大戦の時の日系人のキャンプの展示やら、日系人の方たちが日本から持ってきた古いものの展示があるんですって。それが見たかったの。」
「そうなんですか。そんなに、日系の人の歴史やら戦争とか移民に興味があるわけではなくて。いや、興味はありますけども。日々考えてはいないんで。」
「なにぶつぶつ言ってるの?まあいいから、上がってみましょうよ。早く!」
せかされるように、二階の展示上に上がった。
たくさんの収蔵品がガラスケースに収められているが、多くが戦争を思わせるものだ。正直、少し怖くもあった。なにしろ自分は戦争の「せ」の字も知らない世代で、まるで全部が映画のセットのように映っていた。自分の理解を超える戦争という出来事や、その後の日系人のアメリカでのシビアな生活と、静かにたたずむ収蔵品のギャップがどうも自分の脳の中で結びつかないでいる。そして、僕は確かに二一世紀にいて、この戦争を潜り抜けてきたモノたちと対峙している。束の間、そこには生命のあるものが、自分だけのような感覚を覚えた。その静寂を破ったのは彼女の声だった。
「うわー、ドレスと着物のウエディングの展示があるわ。素敵ね。結婚式の衣装をきれいに残されていたのね。」
ガラスのケースの中に、確かにとても状態のいい婚礼衣装が並んでいる。男性は紋付袴で女性はウェディングドレス。
その時、はっとあるものに目が留まった僕は思わず叫んだ。
「あ、家紋!」
「え?何?脅かさないでよ。」と彼女がちょっと驚いた様子で振り向いた。
「家紋に見覚えがあるんだけど。これうちの実家のと同じだ。」
「どこどこ?」彼女が背伸びをして覗き込む。僕は、うまい説明に困りながらも続けた。
「ほら、新郎の着物に家紋が染めてあるでしょう?丸い図形の中に、鹿の角が一対入ってるやつ。それが、うちのと一緒で、ちょっとびっくりしたもんで。まさかリトル東京でうちの家紋?みたいなさ。」とっさに驚きを隠すようにおどけてごまかしたが、内心まだ胸がどきどきしていた。
「そう?奇遇ね。ちょっとここ読んでみたら?」と彼女は展示の説明を指さした。
そこには、持ち主が自分と同じファミリーネームであり、その方がカリフォルニアで結婚式を挙げたこと、その時の様子が書いてあった。なんだか時間と空間がねじれて自分のほうに近づいてくるようなおかしな間隔に襲われた。いろいろな思いが頭を、いや体中も駆け巡った。
「ほんとに驚いたみたいね。」
「そりゃ、驚いたよ。遠い異国ではるか昔に、僕と同じ苗字の、もしかしたらほんのちょっとは縁があるかもしれない人がここで僕なんか及びもしない冒険をしてたんだ。」その先は、さっき知り合った名前も聞いていない彼女にいうにしては、ちょっと語りすぎなので、言わなかった。その代り、自分だけに言い聞かせるように、心の中でつぶやいた。
一瞬にして訪れた気づき。―自分が選んだ道を、あきらめかけていた自分に、目を覚まさせるのに十分なブローだった。僕は何を甘えてたんだろう。夢を台無しにするところだった。自分の不甲斐なさがようやく咀嚼できた瞬間、ただ一人応援してくれたおばあちゃんのことが頭をよぎった。そういえば、こっちに来てから一度も連絡をしていない。そう思った途端、おばあちゃんの声が聞ききたくてたまらなくなった。
「あ、ごめん、用事を思い出した!僕はここで失礼します。入場券ありがとうございました。じゃあ!」彼女のほうを向いてお辞儀をしてから、踵を返してミュージアムを立ち去さった。
* * *
トゥルルル、トゥルルル。携帯から聞こえる呼び出し音になんだか胸がどきどきする。日本時間はまだ早朝だろうか。電話するときはいつも時差を計算するけど、今日は待っていられない。
「はい、もしもし」新鮮に響く母の声が電話に流れた。
「あ、母さん?僕、翔だよ」
「まあ、ほんとに翔?半年以上も連絡しないで、一体、あんたは」母が聞きなれた小言を始めたのを遮る。
「悪い。やっと、ちょっとだけど人前でパフォーマンスをすることができるようになってさ。おばあちゃんいる?空港まで見送ってくれたお礼がまだでさ。」
「ああ、それが、おばあちゃん今病院なのよ。2日前の金曜日から持病をこじらせて。ごめんね知らせなくて、でも、おばあちゃんが翔には、心配するから言うなって。大丈夫、来週には退院の予定だから。おばあちゃんまだまだ元気よ。そうそう、入院した日なんて、おばあちゃん何してたと思う?」
「何?また家の大掃除でもしてたの?」
「まあ、近いといえば近いわ。おばあちゃん、いきなり、亡くなったおじいちゃんが結婚式できてた紋付袴を箪笥の奥から出してきて、翔は日本人だからこれをきて演技したらそっちでうけるんじゃないかって。きれいに洗濯に出してたのよ。可笑しいでしょう?」
「それは、いい考えだね。さすがおばあちゃん。僕も同じことを思いついたところだったんだ。」頬を熱い一筋が伝う。
「翔?あんた泣いてる?」
「いや、ちょっとね。ハハハ。」
「おばあちゃんが、NHKの娯楽番組で太神楽の曲芸を見てて。ほら、投げものの曲芸があるでしょ?お正月なんかにやるあれ。あれを見て、翔がやってるジャグリングを思う浮かべてたのね。」母の声が脳裏に遠くなる。
なんだかんだ嫌になって、日本を出てきて、ここリトルトーキョーで日本の太神楽にたどり着くとは。すべての出来事がつながってるっていう仮説があるけど、ほんとだな。言葉にならない満足感に浸っていた僕は思った。この偶然は、自分の中だけにしまっておこうと。
*このストーリーは、リトル東京歴史協会による第2回ショートストーリー・コンテストでの日本語部門最終選考作品の一つです。
© 2015 Yuriko Kondo