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第22回 中央北部三州の日系人

中央北部三州とは、ミネソタ(Minnesota)、南ダコタ(South Dakota)、北ダコタ(North Dakota)の三州を指している。百年史では、第十六章で10ページを割いている。

ミネソタ州

「一八九三年のシカゴ万国博開催以前に、田中楠太郎経営の百貨店「起立工商会」や「関西貿易商」と呼ぶ日本人商店がセントポールに在り、松原重栄らが営業にあたっていたというからずいぶん古い話である」と、日本人のこの州でのさきがけについて触れている。

日本絵画など美術品を扱って成功した北川留太郎、病理学の権威としてアメリカ人にも知られ、ミネソタ大学などで教鞭をとった池田叶博士。このほか、福井県出身で軍艦のスチュワートから茶店を経営した山崎与四之助、広島県出身で東洋美術店を経営する赤松次郎が、戦前の日系人として活躍した。

留学生としてミネアポリスに来た日本人もいた。なかには中国料理店で働いていた人もいたが、日本と中国との関係が悪化して日本人は解雇された。 


陸軍語学校で日系兵が教育される 

日系人のほとんどが双子市と呼ばれるミネアポリス市とセントポール市に集まっていた。日系人の人口は1900年に51人でその後微増するが、戦前の1940年には51人と戻り、その後急増して1960年には1726人になる。双子市に日系人が定住した理由についてこう言っている。

「彼らは人種差別の憂き目も見ず、平穏に生活していた。彼らの中、白婦人と結婚した者も少なくなかった。日系人の双子市区域に戦時、戦後多数が転住した動機は、第二次大戦中開設された陸軍語学校と深い関係をもっている。(中略)国内でミネソタ辺が一番人種偏見が少ないことが証明されたので、ミネアポリス郊外のサヴェッジに設置されることになった。日本語学校は、その後フォート・スネリングに移転された。一九四二年より、四六年に閉校される迄、約六千名の日系、韓系、中華系の東洋系兵士らが教育されたが、その大多数は日系兵であった。」

双子市に戦後集まった人たちは、おもにシアトルやサンフランシスコ、サクラメント、ロサンゼルスからで、キリスト教徒が多かったので関係の諸団体も誕生した。英語を十分理解しない一世のみの教会として日系人基督教会もあった。
 

雌雄鑑別中の佐伯穰児氏「百年史」より

雌雄鑑別の技術を展開、成功

ミネソタ州の日系人の成功例として大きく紹介されている人物がいる。佐伯太郎、穰児兄弟だ。二人は、マンケート市を本拠地として、日本人の特技とされる雛雌雄鑑別の請負業を行う「インタナショナル鑑別協会」を経営。

南北ダコタ、ミネソタ、ウィスコンシンをはじめ、イリノイ、アイオワ各州にわたって鑑別士を動員して幅広く事業を展開した。もともとは、父親の佐伯太郎氏がカリフォルニアのフレスノで養鶏場を経営し鑑別学校をつくった。


南北ダコタ州

南ダコタ州、北ダコタ州の日系人は、米国中部の諸州のなかで少数である。日系人の人口統計をみると、1900年は、南ダコタ1人、北ダコタ148人、1910年は同42人、59人。1920年は38人、72人。1930年は19人、91人。1940年は19人、81人。1950年は56人、61人。1960年は188人、127人となっている。

両州とも寒冷地で農業地として適さないために、農業での入植者としての日本人が少なかった思われる。その一方で北ダコタ州への移住者が東部や南部諸州に比べて多いのは、鉄道労働者や鉱山や農園労働者としてある一時期に入り込んだからと思われる。


11人死亡の鉄道事故も

北ダコタ州での日本人の主な居住地はグレート・ノーザン鉄道幹線の要点であるウィルストンとマイナットの両市、それとノーザンパシフィック鉄道幹線のビスマークとメデナ両市になる。ここで当時日本人を巻き込む事故が起きた。

「記録によると一九〇一年のこと、大村定吉と呼ぶグレートノーザン鉄道のブックマンが、モンタナ、北ダコタ州境付近でギャングを統率している中に、会社側の錯誤が原因で材料車と列車が衝突して日本人十一名の即死者と二十四名の負傷者を出した椿事が起った。死体は間もなく北ダコタ州側のウィルストン墓地に埋葬されたが、(中略)のちに寄付金を募って十一名の死者のために立派な石碑を建て、米国北部辺境に民族発展の先駆者として散ったこれらの人々の霊を慰めたという。」


“軍人の花嫁”が戦後居住  

この後、戦時中に大きな変化が起きる。                

「一九四一年末の日米開戦に伴っては、ビスマーク市兵営に戦時抑留所が設けられ、太平洋沿岸三州から護送された日本人指導者が数百名にのぼり、恐らくこの時期こそ北ダコタ州有史以来、もっとも多数の日本人が一時的にせよ足跡を印したことになるであろう。」

戦後、1960年度調査での人口が急増していることについて、「もっとも大きな原因は日本よりの軍人花嫁が、この辺境にも相当数居住するに至ったとみられる」としている。

南ダコタ州へ日本人が入り込んだのは、鉄道工事にともなってで、1914年ごろとみられる。農業としての日本人入植もあり、1916、17年ごろから主としてそれまでコロラド州にいた日本人農家が砂糖大根耕作を有望とみて入り込んだ。全体として日本人の数は少なかったので排日問題もほとんどなかった。

同州でも1960年に日系人が急増している理由として、百年史は「近年の全米的傾向である日本からの軍人花嫁として新しく居住するに至った結果と見られる。」と結んでいる。 

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)

 

* 次回は「中央部五州の日系人」を紹介します。

 

© 2015 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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