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ホノルルの向こう側 ~ハワイの日系社会に迎えられて~

第4回 ガレージパーティ

今やハワイの両親といった存在になっている日系三世のMさんLさん夫妻に出会ったのは、同時多発テロ事件の半月ほど前の2001年8月のことだった。

しばらくして同時多発テロが起きた。翌年まで滞在予定だった私には、飛行機が一時離発着しなくなったことは全く関係がなかったが、旅行者たちは徐々に去り、新たな旅行者たちは来なくなった。ワイキキの灯りは減ってゴーストタウンと化し、太平洋のど真ん中に閉じ込められてしまったような閉塞感が日に日に強まっていった。店が閉じてしまい懐中電灯がないと歩けないようなワイキキなど、今では誰も想像できないだろう。

そんな時にMさんが、「子どもたちのバンドのパフォーマンスをE小学校でやるから来ないか?」と、自身が指導している小学生のウクレレバンドの演奏会に誘ってくれた。奥さんのLさんが勤務している小学校だった。カフェテリアの壇上で奏でられる数々の美しいハワイアンのメロディ、その中でも前奏だけで私を魅了したのが、“Komo mai e hea ke kanaka” という曲である。翌年までの調査研究のしょっぱなに同時多発テロが起きてしまい、ありのままの学校を観察できなくなるのではないかと不安に苛まれていた私の心を癒してくれた。

Mさんとはそれ以降いっそう親しくなり、自宅のパーティにも呼んでもらえるようになった。

ハワイの家屋には、高温(最近の日本の暑さほどではないが陽射しはきつい)を避けるための工夫が伝統的に施されてきた。高床にするとか、天井に梁を張らないなどである。室内を暗く造るほどよい、と聞いたこともある。だがアメリカのモータリゼーションの影響を強く受けたからか、カーライフは本土同様に一家族が複数台自家用車を所有しているのが普通である。

住宅街には路上に自家用車があふれている。確かにかなりのエリアにおいて路上駐車をしていいことにはなっている。車庫に入りきらないのではない。車庫には相当のスペースが空いていることがほとんどである。それなのに昼夜を問わず路上駐車をしている。洗車とワックスがけに勤しみ、青空駐車場にテント型の車庫を作ってしまう私のような日本人からすると、まことにもったいないことである。

テーブルをセットして準備完了

ではその車庫は、車を保管する以外に何に使われているのだろうか。Mさんの自宅に招かれて、それがはっきりした。パーティだったのだ。最初に招いてもらったのは、2001年10月のハロウィーンだっただろうか。その次が11月のサンクスギビング、その間にも小さなファミリー・パーティに呼んでもらったと記憶している。毎回毎回実に楽しい時間があっという間に過ぎていく。MさんLさんは二人暮らしで、ガレージはコンパクトな日本車がやっと2台入るほどの小さなガレージである。ここに奥からテーブルと椅子を出してきて並べて、可愛いテーブルクロスを敷いて整える。二人は小学校のカフェテリアのマネージャーだったし、Mさんはそれ以前にはワイキキのホテルの総料理長だったので、料理はあっという間にズラリと揃ってしまう。それをバイキング形式で、みな好きなものを好きなだけ取って食べる。ご飯は白米と玄米の両方がいつもある。漬物も数種類。お煮しめ、カルーア・ピッグ、バーベキュー・チキン、すき焼き、ハンバーガー・ステーキ、ポケ、ガーリック・シュリンプ、ポイ、マカロニサラダ、天ぷらなどなど。

ガレージパーティの料理
鶏すき焼き
ガレージでのランチ

このパーティを「ガレージパーティ」と口に出してみた。するとLさんはプッと吹き出して「ガレージパーティ!この小さな粗末なガレージで『パーティ』なんてねえ」と笑って言った。発音は「ガラージパーリ」である。「パーティ」の捉え方が日本人の私と日系人の彼女とでズレがあるように感じられた。「ガレージパーティって言わないの?」と訊いてみると、「そうねえ、今まで何とも呼んでこなかったわねえ・・・。いや、ホントに何にも・・・」と言うではないか。「じゃあこういうパーティを何て呼べばいい?」と尋ねると、「うーん、強いて言えばポットラックだわねえ」と言う。「パーティ」という単語を使うのを躊躇しているようでもある。このパーティには本当に名前がなかったのだ。

私をハワイに引きずり込んだ本である加藤秀俊の『ホノルルの街かどから』によれば、次のように描かれている。「本格的なパーティの招待と、それにたいするご返礼、というのは一種の義理の連鎖である。・・・そこで、お互い、義理の感情をのこすことのないパーティの方法がくふうされた。それは、ポット・ラックというやり方だ。要するに持ちよりパーティである。・・・なによりも、主人と客という力学が消滅し、すべての人が『参加』のよろこびをわかちあうことができる」と。

ガレージパーティでの文化の継承

初めて招かれてからかれこれ15年ほどになるが、親族を中心にわれわれ友人たちも仲間に入る夕食会が毎月何度か開かれている。MさんLさんの兄弟やその子どもたちが賑やかにお喋りを続ける。私のような研究者が混ざっているからではないと思うが、ハワイの昔からの価値観、古い時代の生活、日系社会の歴史と発展、他の民族文化との異同や摩擦、そういったハワイでの日常や歴史についての語りが延々続けられる。それを若い世代が楽しそうに聞いている。たくさんのジョークもそこに混じる。

そうした雰囲気の中で、アメリカ的なものと同時に、ハワイの変わらぬ日本文化、変わりゆく日系文化といった価値観に関わるものが共有され、次世代に受け継がれているのだ。私は四国の松山の旧い旧い田舎の文化の中に育ったが、それでも最近はおじおばたちと集まることも本当に少なくなってしまった。私は40代をほとんど終えようとしているが、既に亡くなってしまった祖父母たちに聞いてみたいことがたくさんある。このままでは聞けることも聞かぬまま、おじおばたちをも失ってしまうような危機感すらある。既に叔父の一人は数年前に59歳で他界してしまったし、義叔父は10年ほど前にやはり50代で亡くなった。二人とも現役の校長をしていて、地方の歴史や生活文化に精通していた。そうしたことを聞ける機会は永遠に失われてしまった。

日系の父親と沖縄系の母親を持つO教諭にも、頻繁にガレージパーティに招いていただいている。毎週木曜日の夜にはO教諭の両親の家、つまり実家のガレージに親戚や友人たちが集まっているし、日曜日の夜には母方の祖母の自宅ガレージに、他の島に住んでいる親戚までもが集まってくる。定例のガレージパーティだけでなく、2001年の大晦日には私もお祖母さんの家で飲み食いさせていただき、数千発の爆竹を堪能した後、朝までカラオケに付き合った。ハワイの沖縄系の人たちの結束力が大変強いということはよく知られているが、ガレージパーティはそれを象徴している。結束力が強いからガレージパーティをするのか、ガレージパーティをするから結束力が強くなるのか、それはおそらく両方だろう。

ハワイではこのような形によっても日本文化や日系文化が継承されていくのである。

ちゃんこ鍋パーティ

さて、MさんLさんの自宅でのガレージパーティと、O教諭の両親や祖母の家でのガレージパーティは同じものだろうか。O教諭のほうのガレージパーティがポット・ラックであるのに対して、MさんLさんのほうはそうではない。実はMさんは、親戚や友人たちに何も持ってきてほしくないそうなのである。ことあるごとにそう私に言ってくる。「何も持ってくるな。楽しめ。食べろ」というのが信条なのだそうだ。

ところで冒頭で紹介した、私を魅了したハワイアン“Komo mai e hea ke kanaka”、このタイトルの意味は、「うちへ来い、そして何もかも食い尽くせ」なのである。偶然ながら、うまくできた話ではないか。

 

© 2015 Seiji Kawasaki

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このシリーズについて

小学生の頃からハワイに憧れていたら、ハワイをフィールドに仕事をすることになった。現地の日系人との深い付き合いを通して見えてきたハワイの日系社会の一断面や、ハワイの多文化的な状況について考えたこと、ハワイの日系社会をもとにあらためて考えた日本の文化などについて書いてみたい。