ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/5/11/5714/

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(5)

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2. 1943年

子どもの日常———冬

1ヶ月前から、ハートマウンテンの大人たちは、管理局も日系人も力を合わせて、収容所内に数カ所ある窪地に、消火栓のホースで水をまき、アイススケート場をつくっていました。待ちに待ったスケートリンクのオープニングは1月19日。前の週から気温が下がりはじめ、オープニング当日は摂氏零下33度を記録しています。異常な環境にあっても、出来るだけ子どもたちを楽しませたいと力を合わせて作業した大人たち。もちろん子どもたちも大喜びです。ベーコンのレポートです。

雪の季節になると、雪だるまを作ったり、雪合戦をしたり。……アイススケートリンクも出来たんです。すると、子どもたちはみんなスケート靴が要るでしょう。氷の上を滑る練習はすごく楽しかったですよ。でも、親にとっては、子どもたちみんなにスケート靴を買うのは家計上、大変なことだったでしょう。もちろん、収容所内にはデパートなんてありませんから、スケート靴のようなものはシアーズ・ローバックやモンゴメリー・ワードといった店の通信販売カタログから注文するしかありません。多分、こんな店は収容所からの注文で、すごい売り上げがあったんじゃないでしょうか。2

今回の写真は、ビル・マンボーの一人息子、3歳のビリーが、おじさんのサミー・イタヤとおぼしき人に、しっかり手をつかんでもらって氷の上を歩くレッスンを受けているものです。しっかり握った手と手が、全幅の信頼を預けているビリーと、強制収容所にあってもビリーに変わらぬ愛をそそぐ、家族やおばあさん、おじいさん、おじさん、おばさんの存在を感じさせます。周りの大人にとって小さなビリーの成長が将来に夢をつなぐよすがだったのかも知れません。撮影はもちろんお父さんのビル・マンボー。プロの写真家でなく、趣味のカメラで子供の成長と収容所内の日常を記録しています。3

ハートマウンテン強制収容所でのアイススケート(写真提供:ビル・マンボウ、ワイオミング大学)


日系人は甘やかされている?
———

年が明けてすぐのこと。カリフォルニア選出共和党議員、F・レロイ・ジョンソンは「収容所の日系人は卵、バター、砂糖、コーヒー、肉等の巨大な輸送を受けている。これに反し、収容所の周辺に居住するアメリカ人は割当てられた量分の食料品すら入手に困難を感じている事態にある……」との十分な証拠のない報告を受け、「かかる報告の真相につき宜しく調査が行われるべきである」との決議案を議会に提出。4

そこで、トルーマン(下院非米活動)委員会が、各地の収容所を回って調査をはじめます。委員会がミニドカに来る日、高校の各学年代表が収容所入り口で出迎え、学校を案内することになっていました。雨の中、ヘンリーたちは二時間半も門の側で待っていたのですが、委員会の面々は来ませんでした。委員会の人たちは、一歩も収容所内には足をふみいれていなかったのです。

しかし、後日ヘンリーはミセス・ポーラックの勧めで、連邦議会議事録に収められている委員会の報告書を手に入れて、驚きます。その報告書には、食卓にはリネンのテーブルクロスがかかり、ウエイトレスの運んでくるすばらしい料理を銀のナイフとフォークで食したと書かれていたからです。ミセス・ポーラックに見せると、先生は即座に「あら、これは管理者用の食堂のようすだわ」と。委員会の人たちは、有刺鉄線の囲いの外にある管理者用の地域にだけ行き、そこで食事をし、報告書を書いていたのです。5


収容所で一番おいしかったもの

ヒラ・リバーで­は、当初、食べ物の量は仮収容所の時よりもさらに少なかったそうです。ジーンの母親は、必ずパンを残し、バラックに持ち帰り、乾燥させて茶色の紙袋にいれていました。非常用の食料として準備していたのです。次のジーンの言葉をトルーマン委員会の面々に聞かせたかったものです。

……一方、ぼくたち子供の世代にとっては、直面する飢餓感のほうが問題だった。ぼくたちは貯蔵倉庫からジャガイモをくすねてきて、その周囲に泥を塗り、砂漠の中で焚火をし、かざして焼いた。兄のヨシローには調理場で働く知合いがいて、二度ほどパンと卵をもらってきた。我が家には調味料の小壜があったので、兄はホットプレートを使ってオムレツをつくった。かなりの量ができたから、ぼくの家族の全員に、オムレツ・サンドイッチの半分が渡った。ぼくは自分の分をゆっくりと、なるべく時間を長びかせるようにして食べた。その後、食料の配給量が増え、たえず悩まされていた飢餓感はどこかにいったが、収容所で一番おいしかった食べ物といえば、砂漠でやいたジャガイモとオムレツ・サンドイッチといえるだろう。6


図書館でレコード鑑賞会
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多くの図書館でレコード鑑賞会も定期的に行われていました。トパーズでは毎日出版するトパーズ・タイムスに加え、毎週土曜日に出されていた新聞もありました。その1943年1月15日の紙面では、こんなお知らせが出ています。

午後8時から9時まで、図書館でおこなわれる1月20日のコンサートはフランツ・シューベルトの調べです。幕開けは軍隊行進曲と白鳥の歌からレルシュタープの詩による歌曲第四曲、セレナーデ、その後、マリアン・アンダーソンによる歌唱二曲、アヴェ・マリアと白鳥の歌からレルシュタープの詩による歌曲第五曲「わが宿」を挟んで、シューベルトの交響曲第八番ロ短調「未完成」で幕をとじます。7


夜のボランティア

なにもかもが不確かな生活が長引くにつれて、子どもたちの中にも変化が出てきます。ミニドカの教育長だったクラインコップフの日記にも、高校図書館でサボったり、タバコを回しのみしているグループがいるとの記載がたびたび見られます。ところで、この夜のボランティアって、何だと思いますか? この父親の話を聞いて下さい。

青少年の間で様々な教育問題があった。高校、中学、小学校と教育施設は一応あったが、キャンプは教育する場ではなかった。というのは、長男のタイラ啓志が夕暮れに「バランティアに行ってくる」と、外出することが時々あった。夜のバランティアとは何だろうと思い調べてみると、これが農園にしのびこんで畑のものをチョクチ(失敬)することだった。そういうバランティアの仲間に誘われたらしい。私は教育環境が悪いと思ってキャンプを出ることにした。8

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注釈: 

1. Heart Mountain Sentinel, Vol. II  No. 4, January 23, 1943.

2. Muller, Eric L(ed). Colors of Confinement: Rare Kodachrome Photographs of Japanese American Incarceration in World War II, Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2012.

3. この写真の撮影時期を知りたくて、ハートマウンテンの収容所内の新聞をあたってみました。すると、アイススケート場がオープンした日にちがわかりました。1943年1月19日でした。次はビル・マンボーが禁制品だったカメラをいつ手に入れたかです。ハートマウンテンの所長の「収容所にいる外国人(日本人)が写真機を所有又は使用することを禁止した規則はあるが、立ち退きしたアメリカ人(二世)に禁じた規則は知らない。しかし転住区以外にカメラを持って出たり、公共施設や軍用建築物の写真を撮ったりすることは慎むがよかろう」———が1942年12月24日の新聞に出ていますから、その後、ビルはすぐにカメラを手に入れたと思われます。所長の声明と同じ頃ジェロームとグラナダの収容所でも、二世のカメラ使用が許可されたとの記載があります。それで、この写真の撮影時期は1943年の1月か2月ではないかと推定できます。オリジナルのスライドを保管するワイオミング大学のアメリカンヘリテッジセンターはこの写真の撮影時期を1942年から1944年としています。

しかし、軍事制限地区にある収容所では、依然としてカメラは禁止されていたため、3年間、1枚も自分の生きてきた証がないという、なんともやりきれないような子どももいるのです。

政府の写真家や、アンセル・アダムスによる収容所の写真は、すべて白黒です。ビル・マンボーの写真は、被収容者の視点と生き生きとしたカラーで、収容所生活を切り取っているところに面白みがあります。当時ハートマウンテンにはカメラクラブもあったので、他のクラブ員が撮った写真が、今もどこかの屋根裏部屋の箱のなかに静かに眠っている可能性があります。

Heart Mountain Sentinel, Vol. I  No.10, December 24,1942.
Heart Mountain Sentinel, Vol. II  No.4, January 23,1943.

4. The Minidoka Irrigator, Vol. II  No. 4, January 13, 1943.

5. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, May 4, 1998, Densho Visual History Collection, Densho.

『親愛なるブリードさま』のなかに、4月、大統領夫人エレノア・ルーズベルトが、ヒラ・リバー収容所を訪れた際の記者会見の報告があります。「若者たちをこれらの収容所から出す時期が早ければ早いだけ良いでしょう。彼らは決してある報告書に書かれたような、ぜいたくな環境で生活してはいません。……わたしはあんなふうに暮らしたいとは思いません。」

6. 前掲「引き裂かれたアイデンティティ———ある日系ジャーナリストの半生」

7. Topaz Weekly Saturday Times, January 15, 1943.

8. 伊藤一男著、「アメリカ春秋八十年———シアトル日系人会創立三十周年記念誌」シアトル日系人会 1982

多くの一世はアメリカに来て初めて英語にふれ、耳からはいる音だけで覚えていきました。それで「バランティア」と聞こえたものと思われます。当時の雰囲気が伝わります。忠誠登録の前であっても、アメリカへの忠誠が認められ、仕事があり、保証人のいる人は収容所を出ることもありました。この父親は、本気で仕事を探す決心をしたのでしょう。

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第135号(2013年10月)からの転載です。

 

© 2013 Yuri Brockett

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このシリーズについて

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。

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執筆者について

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

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