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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (5)

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訪問者

ある日、高校生のフランク・ヤマサキのバラックに、メッセンジャーがやってきて、外部からお客様だと伝えます。ピュアラップは、この日は雨じゃなかったようですね。

誰かなぁ……と、心当たりを色々考えながら行ってみると、クイーン・アン高校の先生でした。でも、その先生とはそんなに親しくなかったので、ちょっとびっくりしました。握手をして歩きはじめたのですが、先生はとても静かでした。しばらくして、「どこか座って話せる所がある?」ときかれたので、特別観覧席に案内しました。上の方に上がると、急にまわりの雰囲気がかわるのを感じました。そこからはキャンプ全体が遠近画法で描いた絵のように見渡せました。それまで、バラックがこんなに何列にも並んでいるなんて思いもしませんでした。ここ以外はどこも平坦なんですから。

…… 先生は第一次世界大戦中の経験を話してくださいました。先生はドイツ系で、お父さんが(アメリカの)収容所に入れられたとのこと。同じような経験をなさっていたんです。こんなことが起きるなんて、けしからんことだ、とおっしゃいました。その時、僕ははじめて事の重大さを感じました。それまでは、のんきなティーンエージャーでした。

…… 先生は(戦争中のことを)聞かれ、長い間その痛みをかかえていらして、だから僕にもその話をしておかなければと思われたのでしょう。本当にあった話です。ひどいことです。僕はまだまだ無知で憲法についても何も知らなかったけど、先生に会ったその時、ぼくの人生の新しいページが始まりました。いま起こっていることを、いままでと全然違う見方でみることができるようになりました。2

ブリードも、六月にミルウォーキーで開催された全米図書館協会の会議3に出席した帰りに、サンタ・アニタを訪ねています。

午後一時半きっかりに、テツ(テツゾウ)と妹のヤエコがルイーズ、マーガレット、フサと一緒に面会室に入って来た。クララはまず彼らがみんな日焼けしているのに驚いた。彼らと再会できて心からうれしかったが、どこかぎこちなさもあった。大きなテーブルを隔てて世間話をするのは容易ではなかった。彼女は、手に抱えられるだけの本と雑誌、それにキャンディも少し持参していた。衛兵の検査を経た後で、それらの品々は子どもたちに渡された。

テツは彼女のミルウォーキーへの旅行がどうだったか知りたがった。フサは、サンディエゴの様子が変わったかどうか聞いた。…… クララにもたくさん聞きたいことがあった。ジャック・ワタナベをみかけたか。キャサリンはどうしているか、など。…… 「ディビットやエリザベス・キクチはどうしてるの?」クララがちょうどその質問をした時、衛兵から「そこまで。面会時間終了!」と告げられた。4

サンディエゴへ戻ったブリードへ、早速、7月15日付けでルイーズから手紙が来ます。

面会においでくださった日を忘れることができません。ほほ笑んでいるお顔を拝見して、胸が張り裂けそうでした。ひょっとしたらもう二度とおあいできないのではないかと、そんな気がしたのです。お元気そうでうれしく思いました。

おいしいキャンディ、石けん、それに最高におもしろいご本をほんとうにありがとうございました。『ペギー、ワシントンとロンドンを取材する』と『少女記者ペギー』を読み終えました。エンマ・バグビーの本はとてもおもしろいです。5

新米レポーター6

ポール・オオタキをキャンプレポーターにした当時を思い出しながら話すウォルト・ウッドワード(1998年5月11日)
(写真:Densho, Densho ID: denshovh-wwalt-01-0005)

どこに行くのかも、どのくらいで帰れるのかもわからない旅立ちの直前、ベインブリッジ・レビュー紙の編集長ウォルト・ウッドワードは、ベインブリッジ高校のポール・オオタキをレポーターに任命し、この新米レポーターに指示していたことがありました。「何をしたのか、付き添いの兵隊はどういう風に日系人に接したのか、お年寄りの一世はどうだったか、行く時にだれも病気にならなかったか……こんなことを五十字程度の記事にして、到着地に着いたら、特定の兵士に渡せ」と。ウォルトはその兵士にそれをAP通信の電報でレビュー紙に送るよう頼んでいたのです。

ベインブリッジ島を出たフェリーは、穏やかで美しいピュージェットサウンドをすべるようにシアトルに向かい、日系人はシアトルで待たせてあった汽車に乗り込みました。汽車が走り出したとき、ポールは高校のクラスメートが何人か汽車の側を走りながら手をふっているのを見てびっくりします。わざわざシアトルまで見送りにやって来てくれたのです。その後、2日間ブラインドを下ろしたままの汽車にゆられ、バスに乗り換え、4月1日のお昼すぎ、マンザナー仮収容所に到着。ベインブリッジの日系人がこの収容所に監禁される第一号になりました。その時のポールの印象です。

僕たちの心は今まで以上に沈みました。僕たちを連れて来てくれた兵士さえも、今見ているものが信じられないようでした。僕たちを残して帰って行く兵士の何人かは目に涙をためていました。

ポールの記事第一号は「みんな元気で着きました」とか、「みんな旅を楽しんだようですが、島の友だちのことをおもいだします」とか「汽車の中では、グループで歌をうたったり、トランプ遊びをしたり、引率の兵士たちと話したりしていました」と当たり障りのないものでした。しかし、何十年もしてから、ポールはその当時書かなかったことも記録します。

最初に立ち退かされた僕たちは、モルモットでした。島の多くの人は、何週間かここに居て、家に帰れると思っていたのですが、あの鉄条網を見た時には…… 最初のランチはひどかった。缶詰のほうれん草……陸軍のトラックと同じダーク・グリーンの…… でも、もっとひどかったのは、この最初の食事で病気になったことです。多くの人が下痢でたいへんでした。毒をもられたと思った人もいたくらいです。どうしてこんなことになったかというと、後でわかったのですが、キッチンの仕事をする人たちも慣れてなくて、使い始めだったお皿を随分つよい洗剤であらった後、すすぎが十分じゃなかったということでした。その頃、トイレはまだ完成していませんし、便器も洗い場も使えない状態で…… 順番を待つおなかをこわした人々の長い列ができました。なんというひどい第一日目。

どうしてウォルトが高校生のポールをレポーターにしたと思いますか?だんだん書く事がなくなったポールが締め切りを数回すっぽかし、記事のかわりに収容所内の新聞マンザナー・フリー・プレスを送った時、ウォルトから来た手紙の中にその答えがありました。

親愛なる怠け者へ、

おい、おい、マンザナー・フリー・プレスはとてもいい読み物だったが……一体全体、おれのマンザナー通信員はどこにいっちゃたんだ?

まじめな話だが、おいタフガイ、そちらのいろんな世間話を島に送ってくるのをやめたら、君は日系の人々にたいへんな損害をあたえることになるだろう。この戦争のごたごたが終わって、みんながまた家に帰ってきたいと思った時に、島の大多数の人は、諸手を上げて歓迎するだろう。しかし、そう思わない人や理解出来ない人は歓迎しないだろうし、実際に問題を巻き起こすだろう。

しかし、もし、毎週毎週、レビュー紙上で、君が、日系人はほんの少しの間そこにいて、まだこの島が家だと思っているという印象を与え続けておけば、問題を巻き起こすのはすごく難しくなる。そして、どんなに小さいことでもいいから、日系人のみんなが島のことを思い出しているということを、探して書いてくれたら、もっと難しくなる。僕の考えていること、わかるだろう?

だから……怠け者のレポートはこれまで。オオタキを第一線に戻そうじゃないか。7

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注釈:

1. 第一次世界大戦中、アメリカにおいて、4千人以上のドイツ系アメリカ人が収容所に入れられています。

2. Frank Yamasaki, interview by Lori Hoshino and Stephen Fugita, August 18, 1997, Densho Visual History Collection, Densho.

3. この全米図書館協会の会議で日系人の強制収容について話しあったのは、児童図書部が行ったシンポジウムだけでした。このシンポジウムにおいても、強制収容する国の方針に真剣に疑問を持つものから、国の安全のためには必要だ、とするものまで、意見はわかれ、全米図書館協会としての公式見解は出せませんでした。プラマー・アルストン・ジョーンズ・ジュニアは、論文の中で 「第二次世界大戦中、公立図書館コミュニティは、日系アメリカ人の強制収容に関し、不思議なことに沈黙を守っていた」としています。多くの場合収容所に本を届けたのは、個人の司書が、個人の責任で勇気をもってしていたということです。

Freeman, Robert S. & Hovde, David M.(Eds.), Libraries to the People: Histories of Outreach. Jefferson: McFarland & Co. Inc., 2003.

また、この会議では、コルデコット賞の受賞式もありました。毎年もっとも優れた絵本にあたえられる賞ですが、1942年はロバート・マックロスキーの『かもさんおとおり』が受賞しました。この年の選考委員の中にはブリードもいましたので、『かもさんおとおり』をとおして、わたしたちもブリードとつながっていると思うとうれしいですね。

4. 前掲「親愛なるブリードさま」

5. 前掲「親愛なるブリードさま」

6. Seigel, Shizue. In Good Conscience: Supporting Japanese Americans During the Internment. San Mateo: AACP, Inc., 2006.

7. Seigel, Shizue. In Good Conscience: Supporting Japanese Americans During the Internment. San Mateo: AACP, Inc., 2006.

「ウォルトとミルドレッド・ウッドワードの洞察力には驚きです。……僕たちが立ち退きの計画を立てている時に……二人は……僕たちがスムーズに家に帰れるように計画していたのです……(この後)僕は、このニュースをレポートすることをもっと真面目に考えるようになりました」と、オオタキは語っています。

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第134号(2013年7月)からの転載です。

 

© 2013 Yuri Brockett

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このシリーズについて

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。