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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/10/30/beikoku-31/

第31回(最終回) 南部沿岸諸州の日系人

アメリカへの移民1世の足跡をまとめた「米國日系人百年史」を、北部加州(北部カリフォルニア州)からほぼ州別に読み直してきたこのシリーズもいよいよ最終回を迎えた。百年史、第二十七章は「南部沿岸諸州」で、ルイジアナ州、ミシシッピー州、そしてアラバマ州のことを指している。


港町ニューオリンズを中心に

統計によれば、ルイジアナ州の日系人の人口は、1900年に17人、以後10年ごとに31人、57人、52人、46人となり、戦後の1950年に127人、60年に519人となっている。

ルイジアナで港町として栄えるニューオリンズには、1884年に万国博覧会が開かれたとき、高峰譲吉博士らが日本政府から派遣され約1年間滞在した。定住した日本人の年代ははっきりしないが、船員相手の宿や洋食店、またエビをとって売るものや竹細工店を営んだ日本人がいたという。

福島県会津出身の日向留松は、1904年にニューヨークに上陸したのちニューオリンズに来て日本美術店を開いた。また、日本人のエビ漁師が十数人に増えて、日米開戦まで漁をつづけたが開戦とともに抑留されて中断された。

1912年ごろからは、加州での排日土地法によって新天地を求めてこの地にやってきて農業を営んだものもいたが、2、3年でほとんど引きあげてしまった。

ニューオリンズの日本領事館は1922年に開設され、日向留松が事務の代理をつとめていた。開戦直前は日向の美術店が唯一の日本人営業だった。日本の船舶が相当数出入りして、綿花や大豆を積み、日本からの雑貨をおろしていたという。また、戦時中の一般の対日本人感情は特に悪くはなかった。戦時戦後から他州からの転住者がここにも根を下ろした。戦後は、1952年に領事館が再開し、貿易もはじまり日本船舶も出入りしはじめた。

ニューオリンズ以外では、「近郊のローイジョンソン兵営に約百名ぐらいの軍人花嫁が住んでおり、親睦を目的とする『すみれ会』を組織していた」。首都バトン・ルージュには造園業、アレキサンドリアには写真館を経営する日本人がいた。


もっとも日本人が少ない州の一つ

ミシシッピー州の日系人が統計上初めて現れてくるのは1910年に2人で、20年には記録がなく、30年に1人、40年に1人となっている。戦後は1950年に62人、60年に178人と急増している。

百年史でも、「全米各州のうちで最も日本人が少ない州であった」としている。戦前の歴史はほとんどわからない。戦後、増加した理由は、ひとつには軍人と結婚した女性であり、もうひとつは、同州では四季を通じて養鶏業が盛んなことから日系人二世雌雄鑑別師が全州内に20家族前後居住したとみられるからだという。

ハイジュバーグ市に矢野ジョージほか3家族、ジャクソンに4家族、グリーンウッドに3家族がいたが、実態は不明だった。


サツマ・オレンジで栄える

アラバマ州の日系人は、統計では1900年に3人で、以後10年ごとに4人、18人、25人、21人となり、戦後は1950年に88人、60年に500人となっている。

沢田幸作(百年史より)

アラバマ州では、古くから日本のミカンがサツマ・オレンジとして知られ、また、日本ツバキも有名になった。この州に定住した日本人の草分けは、モビル市で植木園を経営する沢田幸作(大阪府出身)だった。

隣りのテキサス州で植木園を経営していた沢田は、1910年にモビル市の会社に日本蜜柑苗を数千本転売し、その植え方の指導のために現地に出かけたのが日本人としてアラバマ州に入った最初とされている。その後同州で植木園などを成長させた。

一時は、テキサスで米作の傍ら蜜柑苗木園を営んでいた西原清東もモビル市南西で苗木園を開き、清野主(大阪府出身)を主任にしたが、西原は植木園から手を引き、清野があとを譲り受けた。

沢田は各種植木の小売店を開くなどし事業を成功させ、戦後は全米ツバキ展開催に際して、きまって審査員として選ばれた。沢田の活躍は日本にも紹介された。とくに亡き妻を永久に記念するために「ミセス・サワダ」というツバキの品種を成功させ有名になった。

新種のツバキや山茶花をつくりだし、従来アラバマでは育たないとされた桜も改良の末に成功させた。

「今では年々南部諸州に数千本を売り広め、日本のサクラが随所に咲きつつあり、花による日米親善気風を盛り上がらせている」という。


ツバキ・キング

清野主(百年史より)

清野主については、その生涯や功績をはじめとして多くが紹介されている。なにより清野は戦前「米国ツバキ・キング」としてライフ誌にも紹介されたほどその名を知られた。

1888年岡山市で岡山県立病院の院長の次男として生まれた清野は、大阪の岸和田中学を卒業後、父から当時の金で5万ドルをもらい単身渡米しテキサスに行き、ヒューストン周辺で語学や農業の研究に専念し、サツマ・オレンジと呼ばれた日本の蜜柑の植えつけを行った。

しかし、霜害で苗木が全滅の危機に陥ったり、大暴風雨に遭ったりなどした。こうした苦難にも耐え、増殖がむずかしいといわれたツバキやツツジなどの苗木類の栽培と新種の育成に成功。第一次大戦後は需要も増え1930年代には200エーカーの農場で、年間300万本を北米各州に出荷するまでになった。

この彼の功績によって、モビル市は「ツツジの都」と言われるようになり、毎年ツツジ祭りが開催されるようになった。

だが、日米開戦の少し前に日本を訪れていた清野は帰国の道を閉ざされ、財産も没収された。戦後は1946年にアメリカに戻り植木園で働くなどした。戦時中に没収された財産の件は滞ったままだったが、戦時不在中の超過徴税になっていた25万ドルが払い戻されたのを機に、1952年に日本へ戻り東京で居を構え、また日本の園芸界でも活躍した。

* * * * *

以上で、「百年史」をもとにほぼ各州ごとに紹介してきたアメリカでの日本人の足跡は終了する。

「百年史」を読み直しながら、改めて今から100年以上前になんと多くの日本人がアメリカに渡り、全米各地でまさに自らのフロンティアを築こうとしてきたのかを痛感した。まだアメリカ各地が白地図のままだったころ、その随所に日本人が足跡を残していたことは驚くばかりである。

この足跡を1960年ごろに全米を取材した編集者の加藤新一らの功績にも改めて敬意を表したい。本書が出版されてから半世紀以上が経った今、できることならば本書に登場する日本人・日系人がその後どうなったのかをまとめた続編がいつしか出版されることを期待したい。

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)

 

© 2015 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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