ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2014/6/13/japon/

未発見の世界:日本

私は、日本で7年間生活しました。日本語を覚えるには十分な時間でしたが、単なる日常生活で必要最低限の表現だけしか知らず、日本をきちんと理解するのに十分な語学力はありませんでした。私を含め多くのペルー人はそうに思っていましたし、必要ではなかったのです。当時(1990年代初頭)、我々ペルー人が働くところには通訳が配置されていましたし、職場でも、ビザの申請にも、病院へいくにも、会社が通訳を付けてくれました。店では買いたい商品を棚から持ち出し、それをレジで支払うだけでした。レストランに行ってもメニューを開き、欲しいものを指でさせばどのウェイターもウェイトレスも注文を理解してくれました。何も言わなくても生活に困ることはありませんでした。

多くのペルー人にとって日本語を覚えない理由として、日本の滞在は一時的で、いずれ本国に帰ると考えていたからです。あまり賢い理屈ではありませんが、ある友人は、「日本語は難しいし覚えようとしても頭に入らない。無理だ!」と、拒否反応があると主張し、わけの分からない言い訳をしていました。

7年間の滞在は、一種のバブルでした。生活も仕事も日本でしたが、自分の気持ちはペルーにありました。自国が恋しくなることでペルーへの帰属意識を高めました。そして遠い存在だからこそ、できるだけ近く感じたかったのかも知れません。日本にいながら、多くは同じペルー人がいる職場で働き、同胞同士で集まり、サッカー(また、それに似たようなものを)をしました。日本は外面的なもので、我々にとって日本人は部外者で、影のような存在で、亡霊?のようなものだったかも知れません。

休日は、家でレンタルビデオを観て過ごしました。お笑い、スポーツ、政治討論、ドラマ番組などでしたが、すべてペルーで収録されたものでした。映画の場合は、多くがアメリカのハリウッド映画でしたが、その7年間で日本の映画を観たことは一度もなかったと思います。

しかしある日新宿の紀伊国屋書店に行った際、小さなスペイン語書籍コーナーをみつけました。油田を発見した気分になりました。そこには、マリオ・バルガスリョサ(ペルー生まれの世界的作家で、2010年ノーベル文学賞を受賞)の作品「 Contra viento y marea(「万難を排して」)」がありました。それを読んだ私は、大きな衝撃を受け、いかに自分が無知であったのか気づかされました。都内にあるもう一つのスペイン語書店マナンティアル(現在は、インタースペイン書店になり、東京セルバンテスセンターのビル内にある)では、同じくペルー人作家のフリオラモン・リベイロの「Prosas apátridas(無国籍の散文)」という作品があり、これも私に目がくらむほど大きなインパクトを与えました。

これを機に、ペルーにいた時よりペルー人作家の作品を読むようになりました。バルガスリョサやアルフレド・ブライス エチェニケの作品を楽しみました。日本の作品は、たまたま女性友達が教えてくれら大江健三郎氏の「飼育」や「個人的な体験」ぐらいでした。1994年にノーベル文学賞を受賞したことがきっかけで大江健三郎の作品を知ったのですが、それまではこの作家のことは何も知りませんでした。

富士山にも、京都のお寺にも、皇居にも、ディズニーランドにも、実は行ったことがありませんでした。列車に乗るだけで行けるところでも、私も他のペルー人は行きませんでした。当時は、ペルーから入ったビデオを観たり、同胞が集まるダンスパーティーに行くことが多く、リズムが単調でしかし楽しいメネイトかマカレナを踊ることで息抜きをしていていたのです。

食生活についていえば、家ではほとんどペルー料理でした。外食する際には、できるだけ洋食を提供するレストランに行き肉料理を好みました。でなければマックドナルドか、ペルー料理店にいきました。あの7年間で何回寿司を食べたでしょうか。記憶にないぐらい、行っていません。ただペルー料理の代表メニューであるローモ・サルタド(牛肉とタマネギ及びフライドポテト炒め)は、数えきれないほど食べました。

また、日本で選挙があっても誰が首相なのか、ほとんどが知らずに過ごしてしまいました。関心もなかったのかもしれません。しかし、当時ペルーで話題になっていたフジモリ大統領の再選又は再々選についてはみんな知っていましたし、熱く議論していました。

7年間、私は自分の祖父母の国にいながら、その文化や社会、言語や観光名所、歴史についてまったく学ぼうともせず、関心も持たずに過ごしてしまいました。何故なのか。祖国から離れていたからこそもっとベルー人として自覚したかったからなのか。それとも日本からできるだけ距離を置くことで、もっとペルーを近く感じたかったからなのか。日本をもっと知ることや日本に近づくことは、ペルーを「裏切る」というふうに感じていたのか。もちろんこれはとてもナンセンスで馬鹿らしいのですが、今となってあのときのことをこのように理解しています。

日系ペルー人としてではなく、完全なペルー人「ペルアーノ peruano」として、名字やエスニック的な要素を超えた存在になりたかったのかも知れません。

是枝裕和監督の「そして父になる」(2013年)

そしてペルーに帰国して、北野たけしは単なるテレビにでるコメディアンではなく世界的にも認められている映画監督であることを知り、それ以来、彼のほとんどの作品を観ました。その流れで、黒澤明や小津安二郎監督の作品に出会い、最近注目されている是枝裕和監督の大ファンにもなりました。

実は、日本人の作家を発見したのはペルーに戻ってからで、川端康成や三島由紀夫、夏目漱石の小説を読むようになりました。また、川上弘美、桐野夏生、東野圭吾という現代小説家のことも知り、最近は村上春樹の「ノルウェイの森」を読みました。日本ではバルガスリョの作品を待ち遠しくしていましたが、今は村上春樹さんの新作を楽しみにしています(とはいえ、彼の作品にでてくる猫のストーリーを理解することはそう容易いことではありませんでした)。

今ではもうペルーのお笑いやバラエティー番組を観ることはなく、是枝監督の「奇跡(2011年)」や周防監督の「Shall we ダンス?(1998年)」を観る方が有意義だと思っています。当時日本にいながら、その作品が映画化されたことを私も他のペルー人もまったく知らなかったのです。

日本史については広島と長崎に原爆が投下されたことは学校で習っていましたが、日本にいた時は広島の平和記念資料館に行くことを考えもしませでした。また、沖縄を訪れたことがありますが、そこが第二次世界大戦末期もっとも激しい戦闘があったということも知らずに戻ったのです。関心が低かったといえばそれまでですが、今はもっとそのことを知りたいと本を探して読んでいます。なぜ日本が参戦し、あのような悲惨なことがあったのかもっと理解したいと思っています。

日本にいたときは、日本に対して無関心でしたが、今は日本へ高い関心を持っています。時間と距離感が逆に意識を目覚めさせてくれたのかも知りません。視野を広げ、自分の狭い世界から解放され、日本は多くのことを教えてくれると分かったのです。

いずれにしても、日本にはたくさんの作家、映画監督、出来事があり、それを知りたければいくらでも知ることができます。私も多くのペルー人にとっても、日本は他人事の国ではありません。むしろ、いつでもいつまでも発見できるすばらしい世界なのです。

 

© 2014 Enrique Higa

デカセギ 外国人労働者 アイデンティティ 在日日系人 ペルー人
執筆者について

日系ペルー人三世で、ジャーナリスト。日本のスペイン語メディアインターナショナル・プレス紙のリマ通信員でもある。

(2009年8月 更新) 

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