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軍事革命かクーデターか=反ジャンゴ多かった日系農家
三宅ダルシさんが捕まった翌月、1972年2月19日に長野県軽井沢町で連合赤軍が浅間山荘事件を起こし、人質をとって立てこもった。熱い政治の季節だった。
独自の視点から『百年の水流』(2012年、改訂版)を書いた外山脩さん(72、静岡県)は2面に先週掲載された連載「軍政開始から50年」を読んで、「ワシらは当時何も知らなかったと思った」と語った。
ちょうど60年安保運動の頃、1960年代前半に同志社大学法学部政治学科で学生生活を送った外山さんは、まさに京都の学生運動の本場に身を置いていた。「授業の前に左派学生が来て必ずアジ演説をしていった時代だった。右が多かった体育会系の学生が、左派の集会に殴り込む事件を起こした。だからブラジルに来た時も『こっちの全学連も同じようなことをしているな』と感じていた」という。
66年に渡伯し、サンパウロ新聞で記者をした1年目、学生運動を身近に感じていた外山さんは、軍政を皮肉るようなことを記事に書いた。「翌日、水本社長が血相を変えて怒鳴り込んできてね、驚いた。『お前は新聞社を潰すつもりか』って言うんだ。邦字紙もあの当時監視されていた。日系左翼の連中が殺されていたとか、当時は記者であるワシらも知らなかったし、まして報道はされていなかった」と振りかえった。いわばコロニアは蚊帳の外に置かれていた。
「60年代後半から70年代初めにかけて、何回かDOPS(社会政治警察)に取材に行った。あの時、異様な殺気と言うか雰囲気が漂っていて、『ああこれが戦場だな』と強い印象に残った。あの当時は何も知らなかったが、今になってみると、なるほどという感じがする」としみじみと述懐した。
その頃、サ紙の水本ミツト社長のもとには、毎年年末に、ロメウ・ツーマ(77~82年にDOPS最高責任者)やラウド・ナテウ(71~75年に聖州知事)らが挨拶に顔を出していたと外山さんは記憶する。邦字紙の立ち位置は、明らかに軍政寄りだった。
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安部順二連邦下議(73、二世)に軍政50年への見解を問うと「“革命” についてですね」と応じた。伯字紙は「Golpe(クーデター)」と書くが、肯定する派は「Revolucao(革命)」とし、見解が分かれている。
「“革命” 前年の63年、私は24歳でしたが、モジの友人らと10人ほどでコンビに乗って、ブラジリアの田村幸重議員に話を聞きに行った。『ジャンゴ(ジョアン・グラール大統領)が農地改革をするのではないかと心配だ』と彼が言ったのを聞き、心底驚きました。すぐに帰って親と相談し、反対運動を起こした」という。
日系人の多くが農業に従事していた60年代はコチア産組、南伯農協などの全盛期でもあった。「日系人は苦労して土地を手に入れて農業で生活をたてて来た。その土地が農地改革によって二束三文で泣く泣く取り上げられるかと思ったら黙っていられなかった」。
共産主義に共鳴するジャンゴよりも、軍政に親近感を抱くのも無理はない状況だった。だから “革命” が起きた時は、むしろ安堵した側だった。「最初のカステロ・ブランコ将軍の頃は2年とか4年で民政に戻すという話だった。ところが彼が飛行機事故で変な死に方をし、その後まさか21年も続くとは誰も思っていなかった」という意外な展開を迎えた。
一度権力を掴んだ軍事政権は、民衆から離れて一人歩きを初めた。1968年頃から左派学生への弾圧を強め始め、その流れの延長線上に69年からのバンデイランテス作戦、70年からのDOI―Codiに結実していった。
※ 本稿はブラジルの邦字紙『ニッケイ新聞』(2014年4月8日)から、許可を持って転載しています。
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