公式のパラグアイへの日本人移民の歴史は、最初の移民集団が農業定住者として到着した1936年までさかのぼることができます。最初の農業定住者134世帯がラコルメナに落ち着きました。なかにはもっと良い機会や仕事を求めて他の都市や国へ移った人たちもいましたが、マラリアの流行、自然災害、戦時中の社会、教育活動の制限などの困難に直面しつつもラコルメナにとどまった人達もいました。
戦後:日本人移民の流入
その次に日本人移民が多くパラグアイにやって来るようになったのは、1950年代の初めにパラグアイが戦災に打ちひしがれる日本のたまにその門を開いたときでした。1953年に日芭拓殖組合は多くの日本人がパラグアイ南部のフェデリコチャベス、ラパス(旧フラム)、フジに定住するのを援助しました。また日本海外移住振興会社は1959年からイタプア市に農業移住地を開拓しました(サンタロサ、引き継いでフジ、ラパス)。 これらの移住地は地元の農業発展に大きな成功を収めたため、パラグアイと日本の両国政府は移民協定を結び、1959年から1989年までの間に8万5000人の農夫を日本からパラグアイに移住することが許可されました。しかし、日本の経済が1960年代に回復したため、その30年間に実際にパラグアイに移民したのは7000人にすぎませんでした。
ピラポとイグアズ移住地
この協定によってやってきた第3の日本人移民の集団はパラグアイ南東部のピラポとイグアズ移住地に入植し、大豆・小麦・果樹栽培業、牧畜業に従事しました。移住地は日本政府から多額の経済援助を受けました。この固い絆によって一世と多くの二世は自分たちを日本人として強く意識し、日本の文化的価値、習慣と言語を維持しています。
出典:
キクムラ=ヤノ、アケミ編 『アメリカ大陸日系人百科事典ー写真と絵で見る日系人の歴史』 明石書店、2002年。
* 共同制作: パラグアイ日系センター
© 2002 Japanese American National Museum