世界の各地で暮らす日本人をリポートする民報のテレビドキュメンタリー番組が面白い。こんなところでわが同胞はこんなふうに生きているのかと、そのバイタリティーに感心すると同時に、まさに「人間いたるところ青山あり」という思いにいたる。
これは現代のお話だが、まだ世の中の情報や交通網が整っていなかった100年以上前に、すでに多くの日本人が、言葉と文化の壁を越えて世界に飛び出していった。その無数の足跡のなかから、アメリカでのいくつかのユニークな例をご紹介したい。
今回は、カリフォルニア州のリヴィングストンという小さな町に誕生した日本人コロニーの歴史と今について。ここには、ヤマトコロニー・エレメンタリー・スクール(Yamato Colony Elementary School)、つまりヤマトコロニー小学校という名称の学校がある。
町のミュージアムに残る日系の歴史
乾いた空気と刺すような強い陽射しの下、カリフォルニアの州都サクラメントから南へ、なだらかな丘陵地をハイウェイ99号で1時間ほど走ると、リヴィングストンという町への入り口に着く。
「WELCOME TO LIVINGSTON」と、真っ平らな大地に看板が立つ。日本語のほか数カ国語でも歓迎を表している。町の規模の割にはどうやら国際色が豊かなようだ。
まわりには畑が広がるのどかなこのまちのダウンタウンの一角に、小さなミュージアムがある。「リヴィングストン・ヒストリカル・ミュージアム」というかわいらしいレンガ造りの建物だ。歴史の浅い国だからこそなのか、少ない歴史を守っていこうという姿勢を持つ人たちがたいていどのまちにもいて、「ヒストリカル・ソサエティ」という名称で小さなオフィスを構えて地元の歴史をまとめて展示している。
経営を寄付に頼っているところも多く、運営は大変なようだが、訪れる人にはオープンで、ボランティアの人たち(たいていはお年寄り)が、丁寧に説明をしてくれる。リヴィングストンのヒストリカル・ミュージアムもこうしたものの一つだ。
常時公開されているわけではないので、事前に連絡を入れ訪ねると、ボランティアのラツラフさんが迎えてくれた。町の歴史を紹介する展示を見ると、象徴的なのが世界地図に示された何本もの線で、ヨーロッパの各地をはじめ、メキシコや日本やフィリピンといったアジアの国とカリフォルニア内陸のこのまちを結んでいる。なかにはアフリカと結ばれた線もある。
いずれもこの町と住民の出身地とを結んでいる。ここもまた人種のるつぼと言われるアメリカの例外ではないことが分かる。このなかで、ポルトガルやフィリピンからの移民が目立つが、なんといっても展示のなかの大部分を占める日本人、日系人の存在が大きい。
というのも、ここには20世紀の初めにヤマトコロニーと名付けられた日本人による入植地が拓かれ、町の形成に大きな役割を果たしたからだ。
定住を目指してつくりあげたコミュニティー
理想を求めたリーダー、安孫子久太郎
日本人のアメリカ本土への渡航は1880年代から始まり、西海岸には働きながら学ぼうという学生や出稼ぎ労働者などが押し寄せていった。カリフォルニア、オレゴン、ワシントンなどの州では、そのほとんどが農場での作業に従事したり、林業、鉄道、水産関係の現場で、雇われ労働者として働いていた。
しかし、その数が急増すると白人社会から排日運動が起こり、1907年には日米間では日本からの移民を制限するという「紳士協定」が結ばれる。こうしたなかで、個々に労働者として働くのではなく、定住を目指し一つの理想を掲げたコロニー(入植地)をつくろうという事業計画が日本人のなかから出てきた。それがヤマトコロニーである。
この計画のリーダーとなったのが安孫子久太郎だった。のちに“移民の指導者”とも言われるようになる彼は、1865年新潟県北蒲原郡水原町(現在の阿賀野市)生まれで、アメリカへの興味を抱きキリスト教の洗礼を受け、1885年にサンフランシスコに渡った。
現地で日本人により組織された福音会(キリスト教メソジスト派)に属し、その恩恵を受けて大学に通った彼は、やがてリーダーとなる。アメリカでその日暮らしをする書生や社会性のない日本人が増えるなか、これではいけないと、安孫子はアメリカにおける日本人のあり方について考えてきた。
すでにサンフランシスコでは邦字新聞が刊行されていたが、安孫子はこのうちの「ジャパン・ヘラルド」という経営の苦しい新聞を買い取り、「桑港日本新聞」として改名して発刊、新聞経営に乗り出した。まもなくこれを「北米日報」と合併させ「日米」という新聞を創刊する。
これによって啓蒙活動の足がかりを得た彼は、1902(明治35)年10月、仲間とともに日本人労働者の斡旋などをする日本人勧業社を立ち上げる。19世紀末にはじまった日本からの渡米熱は高まり、アメリカ西海岸への日本人は、1900年には年間で1万2000人にも上った。
出稼ぎ的に富を求めてやって来た大量の労働者が都市へと集まり、さらに地方へと仕事を求めていくなかで、同社の需要は高まり、1904年秋には「日本勧業社」と改めて株式会社に拡大した。
利益だけではなく、あるべき姿を目指して
勧業社には事業に伴う理想があった。仕事の斡旋により利益を得ることだけを目的とせず、良質な労働力を提供することでアメリカ社会との融和を図り、土地所有者を増やし日本人の定住を促進させることである。この背景には、増加する日本人移民に対する白人社会からの反発やすでに発動している中国人移民への排斥があった。また、当時、日本人の労働現場で賭博が横行しているという状況に対して、同じ日本人としての反省もあった。
しかし、日本人移民に対する排斥の動きは増し、1907年には日米政府間の取り決めで、ハワイを経由しての本土への日本人労働者は許されず、新たな出稼ぎ労働者の出国も制限されることになった。
こうした動きと前後して、安孫子ら勧業社は、日本人の定住計画の一つとして集団移住による農業入植地の建設を計画した。場所をカリフォルニア州中部のリヴィングストンという町に定め、まず1280エーカーの土地を購入した。当時、付近一帯は牧草や穀物がおおざっぱに栽培されているような土地にすぎなかったが、近くの町が近年急速に発展しているのを目にしてその将来性に期待したのだった。
土地は、区画分けして入植希望者に分譲することになり、その名称は「ヤマトコロニー」と決まった。リヴィングストンを挟んで両側には、「Yam」(ヤム)という駅と「Atwater」(アットウォーター)という駅があり、「Yam」と「Atwater」をつないで発音すると「Yamato」になり、うまいぐあいに日本古来の名称でもあったからだ。
日本勧業社は「Yamato Colony」と名付けられた分譲地について、新聞広告で希望者を募るなどし、日本人入植者を集めた。そして1906年、最初に和歌山県出身の貴志太次郎らが入植し、1908年までに30人がつづいた。
* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年7月23日掲載)からの転載です。
© 2013 Ryusuke Kawai, JB Press