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世界のウチナーンチュ:精神の有り方 - 世界と郷里の沖縄人へのまなざし その2/3

父・蒲一さんの思い出を描いた「サンシン」の著者ベニータ・伊波さん(右)と妹のマリアさん。2007年。(写真提供:レスリー・チネン)

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このように最初の沖縄移民は、他の日本人移民から見るとやっかいな存在でした。特にハワイではそうした見方は顕著だったかもしれません。なぜならハワイでは最初の沖縄移民が到着した1900年よりも早く、1885年には日本との移民契約が始まり、各地のプランテーションには、すでに日本人のコミュニティー社会が形成されていたからです。

そこへ日本語も満足に話せない、風俗、習慣も違う沖縄移民が入ったわけですから日本人社会のなかでは戸惑いもあったと思います。確かに日本で最も貧しい県の沖縄からハワイに渡航した人たちは、沖縄でも最下層の人たちで、貧しいが故に教育の機会も少なかったので日本語も満足ではなかったのです。

沖縄移民にとって、同胞たる日本人社会からの侮蔑にも満ちたまなざしは辛かったに違いないし、そうした偏見のなかで劣等感にもつながったかもしれません。ですからハワイの日系社会の中では「ナイチ」と「オキナワ」という二つの分け方でお互いを意識した時代が日系移民の歴史のなかにはあった訳です。

20年前にインタビューしたタイムズ・スーパーの創業者で二世のアルバート・照屋さんは「今では想像できないことですが、私たちの若い頃は沖縄出身だというのに抵抗がありましたね。「ナイチ」に比べての自分の「オキナワ」に劣等感を感じていたのでしょうね」と話してくれました。

この沖縄の人が感じた劣等感について、ハワイ大学教授で10年前に亡くなられた崎原貢先生は「初期の沖縄一世たちが感じた差別と偏見、そして劣等感は逆に向上心につながった。沖縄の一世たちが教育に熱心だった背景には子供たちには同じ思いをさせたくないという劣等感からの脱却がある」と分析してくれました。

こうして農場での契約労働から都市へと移動したウチナーンチュたちはしだいに都市での暮らしに活路を見出します。ハワイではレストラン業、ブラジルでは市場での商売や縫製業、アルゼンチンでは花屋や洗濯業、ペルーでは理髪業などが多かった商売でした。そして移動から定着の時代に入り、沖縄からの後続の移民も増えていき、独自の沖縄コミュニティーが形作られていきます。

特に南米では沖縄独特の地縁・血縁を中心に都市に沖縄移民が集中する地域が生まれ、沖縄コミュニティーを中心にウチナーンチュはまとまるようになりました。戦後も沖縄からは南米へ多くの移民を送り出しますが、戦前に形成された沖縄コミュニティーが、ニューカマー(新移民)と呼ばれた人たちの受け入れにも大きな力を発揮しました。

ハワイや南米で生まれた沖縄コミュニティーとはどんなものなのでしょうか?

私は一世たちが海外に出て行った20世紀初頭の沖縄の地域社会に深い関係があると思います。そのころの沖縄は地縁・血縁で結びついた社会で、農村では「ユイマール」という共同作業で農業が営まれていました。

「ユイマール」とは作物の植え付けや収穫など労力が必要になるとき、村の人たちがそれぞれの農家を順番に回って、無償で労働をする仕組みです。人々は貧しかったけれども「ユイマール」で助け合いながら、地域のなかで連帯感を強め、精神的な絆を強めていったといえます。

一世たちは、移民先にも沖縄の村落共同体で生まれた「ユイマール」の考え方を持ち込み、ウチナーンチュのコミュニティーの精神的なよりどころとしました。私は一世移民のインタビューをするなかで、いくつかのキーワードがあることに気付きました。

まず「チュイダシキ・ダシキ」という言葉です。日本語では一人、一人助け合おうという意味になるのでしょうか。つまり相互扶助、助け合いのことです。一世たちは後からやってきた後続移民を「チュイダシキ・ダシキ」だといって

こころよく迎えて、自立できるように援助してきました。

つぎに「イヌ・シマンチュ・デームン」という言葉。日本語では同郷のよしみという意味でしょうか。これもウチナーンチュが地縁・血縁を大切に考えていることのあらわれです。ハワイのHUOA (Hawaii United Okinawa Association) のなかには50を超える沖縄の地域ごとのクラブがありますが、これもやはり「イヌ・シマンチュ」という同郷心でつながっています。

そして「ナンクルナイサ」という言葉。「どうにかなるよ」ということですが、日本語とはすこしニュアンスが違って、物事を楽観的に、ポジティブに見るという考えですね。一世たちは言葉の問題、労働の厳しさなどさまざまの困難に直面しますが、そのたびに「ナンクルナイサ」と悲観せずに前向きに生きてきたのです。

それから「模合」という制度、沖縄の言葉では「ムエー」とか「ユレー」ともいいます。何人かでメンバーを作り、毎回、一定の金額を納め、順番に受け取っていく一種の資金作りの制度です。移民先ではこの「模合」がウチナーンチュの間では盛んに行われました。

アルゼンチンでは沖縄移民の人たちに多かった職業として、洗濯業がありますが、商売を始める時には模合を起こして資金を作りました。ブエノスアイレスで洗濯業をしていた又吉新康さんは「アルゼンチン社会では移民は信用もないし、銀行も金を貸してくれません。ウチナーンチュ同士の模合が商売の資金づくりに役立ったのです」と話してくれました。

こうした沖縄のユイマール社会で育まれた相互扶助・強い同郷意識・楽天的な思想がウチナーンチュ・コミュニティーの連帯感を強め、移民社会での精神的な支えにもつながっていったと思うのです。

それから一世たちが大切にしたのは沖縄の伝統文化でした。ハワイでもそうですが、沖縄移民は海外へも三線を携えて渡って行きました。一世たちは一日の労働を終えては三線を弾いて、疲れを癒し、ウチナーンチュの結婚や出産などのお祝いの場では、三線の伴奏で歌や踊りで喜びを表現しました。

キューバで会った沖縄二世のベニータ・伊波さんは革命のあと沖縄に帰ることができなくなった父親の蒲一(かまいち)さんが、沖縄を思いながら三線を弾いていた姿が忘れられないと話してくれました。ベニータさんはその時の思い出をもとに、「サンシン」というタイトルでキューバの沖縄移民の記録をまとめていました。

父・蒲一さんの思い出を描いた「サンシン」の著者ベニータ・伊波さん(右)と妹のマリアさん。2007年。(写真提供:レスリー・チネン)

立命館大学の元副学長だった佐々木嬉代三先生は著書のなかで「沖縄人は新年会、ピクニックなど県人会主催の行事に参集し、三線を弾き、故郷の歌を歌い、踊り、束の間の故郷に酔うのである。それが時空を超えて、世代を超えて移民社会のなかで脈々と受け継がれていくところに、沖縄人の文化の生命力があるし、強さがあるのだろう」と述べています。

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* 本稿は、2011年に名誉博士号を授与された前原氏がハワイで行った日本語のスピーチ。英語版は、2012年8月17日に英字紙「ハワイ・ヘラルド(Hawaii Herald) 」に掲載されたものです。ディスカバー・ニッケイは、前原氏の承諾を得て、スピーチを再掲載しています。

© 2012 Hawaii Herald; Shinichi Maehara

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