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赤土の大地と生きる―パラグアイ日系人 - その1

イグアスを訪問する

「お客さん、42km地点に到着したよ」

車掌さんが親切に知らせに来てくれたので、うとうとしていた私は荷物をひっつかみ慌ててバスを降りた。そこはありふれた幹線道路沿いの集落前で、ガソリンスタンドや閉まりかけた商店が連なり、ひっそりと闇の中にたたずんでいる。こんな道沿いの小集落なんぞ完全に無視して、車はびゅんびゅんと通り過ぎて行く。

これはとんだ所に着いてしまった。大丈夫なんだろうか?この地に関する情報もほとんどないまま来てしまい、さらに暗いため不安が増していた。なにより日本語の看板が周囲にひとつも見当たらない。何かありそうな場所にはとても思えないではないか。

この何もない国道7号線沿いに下ろされた

私は日本人入植地のひとつ、イグアスを訪ねて来たのだった。

パラグアイには日系人が多く住み、これまで訪れた都会でもたくさん見てきた。しかし移民がおもに従事する農業を営む人々には会えなかったし、集まって農村に住む人の暮らしも気になっていた。さらにはパラグアイの美しい田舎も訪れてみたかった。だからエンカルナシオンの宿にあった情報ノートにイグアス居住区についての記述を見つけると、そのわずかな情報だけを頼りにやって来たのだ。

それによるとイグアスはパラグアイのシウダー・デル・エステからアスンシオン方面に40kmほど行った場所に位置し、「福岡旅館」や「白沢食堂」、鳥居の建つ中央公園などがあるという。

日本語で書かれた標語の看板。しかし歩いていても日本語の看板はこれしか見ない。日系の店の名前は普通ローマ字表記されている

「あの、福岡旅館ってどこですか?」

右も左も分からないので、少し歩いた場所にある店まで行って尋ねる。するとそのパラグアイ顔のおじさんは、近くで陽気にビールを飲んでいるグループのなかの日本人のような顔をした1人に話しかけた。

「ええーっ、オレ日本語しゃべれないよー」

こう言うスペイン語が聞こえたが、その直後に聞いたのは意外なほど完璧な日本語だった。

「えーと福岡旅館に行きたいんですか?ここから荷物持って歩くんじゃちょっと遠いかもなあ。ちょっと待って、迎えに来てもらえるかもしれないから」

こう言うと日本人顔の中年男性は、携帯電話を取り出してどこかへ電話をかけた。

「少し待ってて、今迎えに来てくれるって言うから」

それが済むと男性はもう私に話しかけず、一緒に飲んでいた4人ほどのパラグアイ人と流暢なスペイン語で上機嫌で会話を続けた。

すぐに迎えの車が来て、700メートルほど離れた福岡旅館に無事たどり着いた。宿の女性もまた普通に日本語をしゃべり、見た目も皮膚の色も日本人そのものだ。

「この辺には90世帯ぐらいの日系人が住んでるんですよ。でもブラジル人とかドイツ人とか、日系でない人もたくさんいるんですよ」
「ごめんなさいねー、今日暑いからお風呂沸かさなかったの。本当にすみませんね」

気の使い方もまるきり日本人。家はとりたてて日本的ではないけれど、部屋の壁には金閣寺の絵がかかっている。テレビにはNHKが映り日本語の蔵書も閲覧できる。朝食は日本食で、風呂はなんと五右衛門風呂だ。1泊だけの予定だったので、この五右衛門風呂が体験できないのはちょっと残念だった。

ところが翌朝急遽もう1泊することに決めたので、結果的に五右衛門風呂にも入り、村をのんびり散策もし、金閣寺の絵を眺めながら三島由紀夫の「金閣寺」も読み切った。

なぜ延泊することになったというと、イグアス入植地に関する日本語の資料がこの宿にあったからだ(日系移民の家には大抵こういう本がある)。南米ではマイナーな国であるパラグアイ。日系人はここにいつ頃来、現在どのような生活をしているのだろう。資料と私の体験をもとに、ぜひともそれを伝える記事が書きたくなってしまったのだ。

さあもう夜中の3時だ。もうこれ以上延泊はしたくないので頑張って書いてしまおう。

日本人はいつ、なぜやって来たか

パラグアイの日系人には不思議なほど日本語が通じるという事実に、最初私は驚いたものだった。ペルーで会った日系人はスペイン語の方がうまいか、もしくはスペイン語しか話さなかったから。それもそのはず、パラグアイの移民の歴史はペルーのそれほど古くなく、ラコルメナ以外の土地への入植は、すべて戦後に始まった。そして耕作をやめて都会に集中したペルー日系人に比べ、パラグアイ農村のゆっくりした環境に身を置いていれば言葉も文化も残りやすいかも、などと想像する。

かつて日本人移民の最大の受け入れ先はブラジルだった。しかし日本人排斥の気運が高まり、ついに「外国人移住者二分制限法」が制定されて、ブラジルに移住できる日本人の数は激減した。そこで新しい受け入れ先としてパラグアイが浮上してきた。

パラグアイでは周辺諸国との戦争で疲弊して人口が激減し、60~85万人いた人間が1886年には26万人にまで減っていたという。南米の地図で見れば小さく見えるパラグアイだが、面積は日本よりも少し大きい。それでこの人口だから経済的社会的な状況は深刻だった。そこでまずヨーロッパ諸国からの移民が受け入れられ、さらに1936年から第二次世界大戦までに、700人余の日本人が移住をした。

第二次世界大戦後、いったん打ち切られた日本人移民の受け入れも再開され、50年代から60年代初頭にかけてパラグアイへの農業移住は盛況を極めたという。イグアスへの移住も1961年から始まったが、その後日本が高度経済成長の時代を迎えると、移住の動機は薄くなり入植者も減っていった。現在パラグアイの日系人口は7000人だというから、他の南米移住先国に比べるとかなり少ないことになる。

移住後の生活と作物について

イグアスの土はテラローシャと呼ばれる赤土で、養分に富んでいる

イグアスに入植直後、移民は粗末な仮小屋に住み開拓に明け暮れた。当時周囲は濃い原生林に覆われ、ヒョウなどの猛獣も住んでいた。まだ交通の便が悪くて作物の販売はできず、生活はほとんど自給自足であった。1960年代にはこれといった作物も定まらず、大豆、稲、小麦などの導入も試みられたが成功しなかった。価格が急騰したツング(油桐)の植え付けを始めた人も多かったが、ハキリアリの被害によって全滅した。そうするうちにトマトや鶏卵を、定期便のバスでアスンシオンに運んで市場で売るようにもなった。

1970年代、移民たちは依然として厳しい経済状況におかれ、資金回転の速い蔬菜が主要作物となった。とくにトマトやメロンの栽培が広まり、また養鶏や肉牛飼育への取り組みも本格化した。1972年にブルドーザーやトラクターなどの大型作業機の導入がされ、開墾が進み耕地面積が急激に増大した。大豆を作る農家も増えてきた。

1980年代は養蚕業が停止し、蔬菜栽培もたちゆかなくなった。土地を売却して帰国する農家も続出し、出稼ぎのために日本へ向かう人も増えた。しかし1983年から不耕起栽培技術が普及しはじめると、大豆相場の高騰にも後押しされ、日系人の経済は急速に回復していった。

不耕起栽培とは、前年の作物を収獲した後、耕すことをせずそのまま次の作物を植えること。専用播種機と除草剤が必要なため、実用段階に至るまでは時間がかかった。しかし雨水による土壌流出対策としていったん定着すると耕作や整地の必要がなく、労力が大幅に削減され、時期に遅れずに種まきができるため収穫量も増加した。

その2 >>

* この旅行記は2004年9月のもので、ここに記載されている情報は当時のものです。3年以上にわたる世界一人旅の様子を記録した”さわこのWondering the World”からの転載。

© 2004 Sawako Suganuma

Paraguay travel Yguazu