ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

限りなく遠かった出会い

古いフィルム(1) 歴史的政治転換期

あるきっかけから61年前の古いフィルムが私の手元に届いた。父が亡くなる前に古物を預けていた友人から、父が他界して数年後、私に届けられたものであった。

思いもしなかった映像に目を見張った。歯の技工士の仕事を辞めてパラナ州に移転した父が、1948年に州政府と共に企画した植民地の開拓事業に関わる記録映像であった。旧方式の35ミリのセルロイド製フィルムだったので、燃えやすい為シネマテッカ・ブラジレイラに保管してもらうことにしたが、そこの幹部の方達も映像を見て目を白黒させていた。それは、父が一生を賭けたパラナ州のドウラードス植民地の開拓事業のシーンや当時の映画館で上映されたさまざまなニュースクリップが含まれたものだった。

元独裁者バルガスは1952年の総選挙に当選した。

中でも目を引いたのが、1952年のゼツリオ・バルガス大統領の就任式だった。群衆の盛り上りはその当時の政治の活気さをあらわしていた。また、日系人主催の農産物展示会のイベントも映像も気になった。アデマ―ル・デ・バーロス・サンパウロ州知事がヘリコプターから下り、出迎えの現地の農産物生産者達、すなわち日系人たちの映像が出てくる。大勢の日本人会の幹部達が出迎えており、着物姿の子供達が州知事に花束を渡している。

わたしは気になって、これらのニュース映像の背景を個人的に調べて見た。はっきりしない点もあったが、下記は小生が調査して判明したものである。

* * *

太平洋戦争終結後、日本の敗戦を信じない勝ち組のテロ行為によって負け組23名が殺害され、147名が負傷するという事件が起こった。この事件に関与した勝ち組の臣道連盟幹部ら155名が、リオとサントスの中間にあるアンシエッタ島に収監にされた。

1946年から1948年までアンシエッタ島に監守されていた臣道連盟のメンバーたち

その頃、ブラジルでは、バルガス独裁政権(1930〜45)が終結して、ヅトラ政権のもと新憲法が制定された。1947年には、女性投票権が初めて認められた自由選挙が行われ、サンパウロ州知事選挙戦では独裁政権下指名知事であったアデマール・デ・バーロスが当選した。

特筆すべきは、選挙運動の一環として、バーロスは、アンシエッタ島に収監にされていた臣道連盟幹部クラスの釈放を約束したことだ。収監者のうち81名がブラジルから追放される刑を言い渡されたが実行されず、1948年にはほとんど全員釈放された。

1950年、バーロスは、リオ・グランデ・ド・スール州に引きこもっていた元独裁者バルガス(PTB党)をかつぎだし、次期大統領候補へと後押しをする。当選の見返りとしてバルガスの次の大統領立候補者としての地位を約束させたバーロスは、ブラジル国内で烈しい選挙活動を展開した。その結果、与党のヅトラとアメリカが後押ししていた当時の空軍大将エヅアルド・ゴーメス(UDN党)を破り、バルガスは大統領の座を勝ち取った。

そして、サンパウロ州知事の任期(1947〜51)が終えたアデマール・デ・バーロスは、再編成したPSP党を通して、殆ど無名のサンパウロ大学の工学博士のルーカス・ガルセースを後任知事にすることに成功し、次期大統領選への活動を始めていた。

しかし、バーロスが大統領へ担ぎ上げたバルガスは、反米政策を取っている上、議会と協調した政治が不得意であった。そのため、嵐のような雄弁家のカルロス・ラセルダ議員(元リオ知事)に追い詰められたあげく、ラセルダ暗殺未遂事件にバルガスの保安警備官が関わっていたことが明らかになり、自殺をするのである。1954年8月24日の事であった。

その結果、アデマール・デ・バーロスの野望も消え去った。小生は10歳であったが、当時のことは今でも良く覚えている。余談ではあるが、バルガスの残した遺書は今でも有名な歴史資料となっている。

* * *

バルガス、ガルセース、アデマール、日系社会の勝ち組・負け組み問題緩和を図った、カンポス・ド・ジョルドン市にて、1952年。

さてこの父の古いフイルムにあった気になる映像であるが、この第二期バルガス政権中のもので、未だ勝ち組負け組み問題のしこりが残っている日系社会で記録されたものであった。そして、ブラジルを騒がせた勝ち組過激派の臣道連盟の問題解決の対策の一環として企画されたのが農産物展示会であった。日系社会のリーダーたちは、新大統領、サンパウロ州前及び新知事を招聘することで、日系社会の安定化を図ったのである。この多くの犠牲者を出した「勝ち組負け組」問題は、このように多くの政治家や日系社会リーダーたちの努力をもって緩和されていったのだ。

その後、1954年には全伯邦人の団結のために、日伯文化協会や日伯文化連盟が設立された。1958年には移民50年祭記念に日本の皇室から三笠宮殿下ご夫妻が来伯された。式典は無事、盛大に行なわれた。この頃になって、日系社会はやっと正常化したといえるだろう。終戦から13年過ぎていた。

その翌年の1959年には岸信介総理大臣(現安部総理の祖父)がお見えになり、石川島播磨造船所がリオに建設された。またミナス州では、ウジミナス製鉄所建設のような大プロジェクトが実現された。このように日系社会も、ブラジルの発展に積極的に誇りをもって参入して行った。

今、振り返ってみると、この古い映像のあの頃は、現在に比べると大物政治家が揃っていたような感じがする。その手口がどうであろうと、代表的な人物として、バルガス(独裁者)、ラセルダ(ブラジル歴代の雄弁家)、アデマール・デ・バーロス、ルイス・カルロス、プレステス(共産者)、クビチェック(ブラジリアの建設者)、ジャーニオ等があげられるだろう。64年の軍部のクーデターからの軍事独裁政権によって「芽を出せば切れ」で、新しい世代には大物政治家はだんだんと少なくなっているようである。

 

*本稿は、サンパウロ新聞のコラム「読者ルーム」に掲載され、『限りなく遠かった出会い』で紹介されたものに加筆修正したものです。

© 2013 Hidemitsu Miyamura

Brazil politics

このシリーズについて

1934年19歳で単身ブラジルに移住し、81歳にブラジルで他界した父が書き残した日記や、祖父一家の体験話などをもとに、彼らのたどった旅路を、サンパウロ新聞のコラム「読者ルーム」に連載した(2003年4月~2005年8月)。そしてそのコラムをまとめ、「限りなく遠かった出会い」として、2005年に出版した。このシリーズでは、そのいくつかのエピソードを紹介する。