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もっと日系の意見を聞いてくれればいいのにシアトルの日系スーパー、宇和島屋・モリグチ会長 - その1

アメリカで最も成功した日系資本のスーパー、Uwajimaya(宇和島屋、シアトル)の歴史については昨日紹介した。長年にわたってその経営をリードしてきたトミオ・モリグチ(森口富雄)会長は、ビジネスのみならず日系2世として、現地の邦人紙・北米報知(The North American Post)の発行や、日系人の高齢者福祉の観点から生まれたNPO、日系コンサーンズ(Nikkei Conscerns)の運営などアメリカの日系社会でのさまざまな文化、福祉活動にも積極的に関わってきた。

日系というアイデンティティのために何をしてきたのか、また、日系アメリカ人の観点から日本のアメリカでのビジネスをどうみるかなど、シアトルで話を聞いた。

* * *

――シアトルには Seattle Keiro(シアトル敬老)と Nikkei Manor(日系マナー)という2つの日系の高齢者の施設がありますが、やはり食べ物などの点から、日系人のためのホームが必要だったのでしょうか。

トミオ・モリグチ会長。宇和島屋取締役会長

モリグチ:  この老人ホームは日系コンサーンズが作ったもので、最初は1世のための1世コンサーンズでした。かつて1世がまだ健在だったころ、よく集まっては「自分たちのための老人ホームがあったらいいな」という意見がありました。

むかしの宇和島屋のお客さんを見ても分かりますが、1世のなかには独身で家族がない人も結構いました。苦労した人が多かったのです。ですから、彼らのためのホームをつくってあげたいという気持ちもありました。

また、2世の医者や現地の仏教界などからもこうした意見があって、あるとき老人ホームが売りに出ていることが分かり、よしそれならと私たち2世が中心になって7~8人で50万ドルを集めてつくることにしました。

日系コミュニティーのために邦字紙を残す

――モリグチさんは、シアトルで歴史ある邦人紙、北米報知紙の発行人でもありますね。戦前から続くこの新聞をどうして引き受けることになったのですか。

モリグチ:  父親の親戚で窪田竹光さんというシアトルで大成功した人がいます。彼はお花やお茶の普及とともに新聞ビジネスにもかかわっていました。しかし経営は厳しく、後継者を探していたので17人でインベストメント(投資)して北米報知を買いました。

1988年ごろでしたが、それまでは日本語だけの紙面でときどき英語が入るだけでしたが、英語版も入れるということだったので、将来を考えて引き受けました。また、窪田さんとの関係で、裏千家(茶道)のシアトルの会長も引き受けることになりました。

――日系人としてはやはり活字文化は残さないといけないと考えたのですか。

モリグチ:  やはりコミュニティーとして残さなければならない。アメリカの邦人紙はどんどんなくなっていっていま残っている主なものは、ハワイとロサンゼルスくらいですね。

サンフランシスコでは、日米タイムズと北米毎日新聞が近年相次いで廃刊しました。あれはもったいなかった。どうして相談してくれなかったのかと思いました。惜しいね。カナダのバンクーバーにはバンクーバー新報がありますね。

新聞など日系の文化は、最初は1世のため、次は2世のため、というように新しい世代のために残しておかなければならない。若い人もそう考えているようです。

北米報知とソイソースを手にして

――北米報知のほかに、このほど新たに他社が発行していたソイソース(Soy Source)というフリーペーパーを引き受けることにした狙いはなんですか。

モリグチ:  北米報知だけでなくソイソースも合わせれば、発行部数の点で広告の効果があるのではないか。ハワイ、ロスなどで出ているフリーペーパーを見ると、日本の会社が広告を出しているし、まだチャンスがあるのではないかと考えました。

いい例があります。今度新たにシアトルと成田を飛ぶことになったANA(全日空)が広告を出してくれることになりました。

シアトルはマイクロソフトもあるし、エコノミーがアジアに向けに少し伸びているから、飛ぶことになったのでしょう。かつてはJALがシアトル―成田間を飛んでいましたが、1週間に2~3度でそのうち撤退しました。商売人に向けるには毎日飛ばないと意味がないですからね。

日系人と積極的に交わらない日本のビジネスマン

――ところで、日本の社会は日系人をどんなふうに見ていたのでしょうか。いままでの経験から感想を聞かせてください。

モリグチ:  以前僕らはよく日本では“移民の子”と言われたりしましたし、オヤジが日本を出たのは、日本で成功できなかったからだと言われたりました。また、日本の銀行に行っても相手にしてくれないことがありました。ブラジルからの日系人が日本で多く働いていますが、あまり大事にしてあげないように見えますね。

――以前、モリグチさんは日本からアメリカに来てビジネスをする人は、もっと日系人と交流したらどうかと言われましたね。 

モリグチ:  そうです。もっと日系人と交流してアドバイスを受け入れたりすればいいと思いますが実際はそうではない。

何百、何千と日本からビジネスでシアトルに来る人がいますが、2世、3世に近づいて交際して、アドバイスをもらう人はごくわずかです。それが日本の弱いところでしょう。

ただ、ソニーの盛田昭夫さん(ソニーの創業者、故人)は違いましたね。アメリカで2世の友だちをこさえたりしていました。それから紀伊國屋書店の亡くなった松原会長(松原治、元紀伊國屋書店名誉会長)は、いろいろアドバイスを外部から聞いていました。

彼は日系2世の財務担当者を雇っていました。あるときサンフランシスコで不動産を買うときに、この部下に相談したところ、持ちかけられた値段の実際は3分の1くらいの価値しかないことが分かり、それで交渉して買ったらしいです。ずいぶん節約できましたよ。

反対に、日本の大企業が以前ゴルフコースを買ったとき(バブル期にカリフォルニアのペブルビーチを買収した)などは、こっちの経済人はなんであんな高い値段で買うのかなって、みんな笑ってましたね。地元の人のアドバイスを聞けば分かるのにね。

その2 >>

* 本稿は、JB Press (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2012年7月31日掲載)からの転載です。

© 2012 Ryusuke Kawai, JB Press

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