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偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その8/9

>>その7

サムは、淑子と結婚する以前の事だったが、イサムは1951年に再来日して、丹下健三氏と共に広島に行き、橋のデザインも描いていた。そして、広島の原爆慰霊碑のコンペに応募したことがあった。建築家の丹下健三氏の推薦もあったが採用されなかった。その理由はイサムにとって、またまたショックな出来事であった。審査員の一人が、イサムはアメリカ人だと罵った。「原爆を投下したアメリカ人のデザインを採用する訳にはいかない」との理由であった。しかし、イサムは丹下氏に「自分は日本人の血も半分はいっていると審査員の人たちに懇願してほしい」と伝えたが残念ながらその思いは叶わなかった。

イサムは再び自分の存在する場所がないことを痛感していた。原爆慰霊碑は幻の作品になったが、最後は丹下健三氏が設計することになって、イサムのデザインの一部を取り入れて完成した。橋のデザインは採用されて実現した。少しは気持ちも薄らいだかも知れない。山口淑子と結婚したのもその頃であった。

そして、同時期にイサムの世界が展開されて生まれたのが「灯りのシリーズ作品」であった。竹籤と和紙の組み合わせによるランプの作品で日本感覚によるものであった。そこには日本人であるという意思が感じられる。そして日本人以上に日本の美を追究しようとした試みであったと考えられる。その背景には淑子との生活もあったかも知れない。暖かいランプの灯りがどことなく重なって見えてくる。

そして、淑子と別れた後、イサムは精力的に制作を続けて行く、ニューヨークの5番街に「Waterfall wall」「Ceiling」を制作し、ブッダ生誕2500年のニューデリーでの記念碑、パリのユネスコ本部庭園を制作した後に再びニューヨークに住む。

イサムは大きなプロジェクトを次々と完成して行き、1961年には、ロング・アイランド・シティーにアトリエを構えた。その後、イタリアのカッラーラに10年間、毎年訪れることになった。1964年にはIBM本社庭園を制作している。

その頃であろうか、京都の北白川美術村を訪れている。私が16歳の頃、新聞の紙面でノグチ・イサム氏が北白川美術村に訪れた記事を見つけました。美術村のアトリエを背景にノグチ氏が俯いて立ちすくんでいる写真でした。顔までははっきりと写っていませんでしたが、それは余りにも暗い表情で重く沈んでいるような姿でした。後に私が美術村を訪れてから知ったことですが、日本語は話せたはずなのになぜか日本語で話そうとしなかったそうです。

1968年にはホイットニー美術館で個展を開いて、1970年には大阪万博のために噴水を制作しています。1972年にデトロイトで建築家のジョージ・サダオと共同制作が始まり、それ以後、共同制作は続いた。その後、シアトルの「Landscape of Time」. ニューヨークの「桃太郎」. 東京の草月美術館の「天国」などを制作した。

その後も、彼の制作意欲は衰えることなく続いていく、若い時からの夢である「地球そのものを彫刻する」という発想を基にした計画を諦めることなく実現へと向かうのである。それは札幌のモエレ沼公園のランドスケープへと繋がって行く、飽くなき探求心と共に何かに取り憑かれたようにイサムは邁進することのみであった。

イサム・ノグチの設計によるランドスケープ、札幌の「モエレ沼公園」

その9>>

*本稿は日墨協会 のニュースレター『Boletin Informativo de la Asociación México Japonesa』148号(2011年3月)からの転載です。

© 2011 Koji Hirose

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