「常に世の中を変えたいという意志があったんです。」
1度のアカデミー賞と2度のエミー賞を始め、数々の映画賞に輝くジョン・コーティ監督は、映画界で素晴らしい成功を手にしてきました。しかしながら、彼の監督としての真髄は、「ハリウッド的成功」を超えたところにあります。「マンザナールよさらば」を手がけたコーティ監督は、初期の頃から社会正義をテーマとする作品に取り組み、反戦運動、人種差別、市民権運動、障害のある子供達との養子縁組などといった問題を映画の中で扱ってきました。
「マンザナールよさらば」は、第二次大戦中に強制収容された日系人家族を描いた、ジーン・ワカツキ・ヒューストン原作の小説を映画化したものです。ヒューストン夫妻とコーティ監督は、この映画で、ヒューマニタス賞、すなわち、人間の自由と尊厳を促進し、人々が共有すべき体験を伝えるテレビ番組に毎年贈られるを受賞しました。この作品は、NBCで初回放送された1976年以降、効果的かつ色あせることなく、アメリカ史の苦悩の時代を人々に伝えてきました。
2011年10月23日に行われた全米日系人博物館での上映会で、ジョン・コーティ監督は、自身のキャリア、同作品、映画が残した遺産について語ってくれました。
映画監督としてのキャリアはどのようにスタートしたのですか?
私はとても恵まれていて、かなり若くしてキャリアをスタートさせることができました。16歳の時、美術の授業でカナダ人アニメーターのノーマン・マクラレンという人の作品を見た時、自分の芸術作品と文章を映画の中で融合させられることを悟りました。アンティオーク大学には、学生が仕事と学業に同時に従事できるワーク・スタディ・プランという制度があったので、私は自分の映画会社を立ち上げながら学位を取得することもできました。
卒業後の最初の仕事は、アメリカ・フレンズ奉仕団のためのドキュメンタリーでした。アメリカ中から何千人ものクエーカー教徒が集い、無言で国防総省を取り囲み、3日間夜通し立ち続ける、という平和運動を扱った映画です。「The Language of Faces」というタイトルのこの映画は、11の映画祭で上映され、ベルガモ映画祭ではドキュメンタリー部門の大賞を、サンフランシスコ映画祭では大賞を受賞しました。
1966年、私は、ドラマ映画を制作しようと、無名の役者を起用し低予算で初の長編映画「The Crazy Quilt」を制作しました。幸運にも映画は大ヒットし、大手雑誌や新聞からも非常に高い評価を得ました。あまりお金にはなりませんでしたが、私の名前は映画界に知られるようになりました。
なぜ「マンザナールよさらば」を選んだのですか?
私は、ハリウッドをのし上がって映画監督になったわけではありません。実は、ハリウッドには行かないぞ、と自分自身に誓ったことさえありました。私には、常に世の中を変えたいという意志があり、社会的、政治的に最も強い影響力があるのは映画だと考えていました。「The Crazy Quilt」から数年後、「 ジェーン・ピットマン/ある黒人の生涯」を制作しました。初回放送の夜、5千万人がこの映画を見ていました。次の日、事務所にはひっきりなしに電話がかかり、その中には、会ったこともない、かなり有名な人たちもいました。彼らは、作品が気に入ったことを伝えるためにわざわざ電話をかけてきてくれたのです。でも、私が最も特別に感じたのは、その後3日間、ラジオのトーク番組で、「この映画を見るまで、黒人として生きることがどういうことか全然分かっていなかった」という視聴者の声で溢れていたことでした。
ジムとジーン・ヒューストンも、「The Autobiography of Miss Jane Pittman」を見ていました。彼らは本を持って私に会いに来ました。私は、「マンザナールよさらば」は自分にとって完璧なプロジェクトだと思いました。しかし、ハリウッドでは、映画館で上映される長編映画に比べ、テレビ映画は二流であると考えられていたので、キャリアチョイスとして間違っていることは分かっていました。監督のほとんどは、テレビ映画から卒業したいと思っています。エージェントからは、「君ほどの影響力があれば、ワーナー・ブラザーズでもパラマウントでも映画を作らせてくれるだろうよ」と言われました。でも、もし私がこの映画をやらなければ、ストーリーの映像化は実現しないだろうし、強制収容の事実がアメリカの人々に知られることは決してないだろうと確信していました。
小説「マンザナールよさらば」は、どのように脚本化されたのですか?
ヒューストン夫妻が本を提供し、私を加えた3人で脚本を書きました。ある部分は彼らが担当し、別の部分は私が下書きしました。そして、それぞれの担当箇所を交換し、意見や提案、修正案を出し合いました。こういったやり方だったので、書き上げるまでにたくさんのやりとりがありました。もちろんベースとしてあるのは、ジーンの記憶、体験だった訳ですが。
脚本の変更を求められることはありませんでしたか?
NBC執行部との最初の面談で、担当者は、「この作品を手がけようというのは素晴らしいことだ。でも、どうだろう、視聴者を引きつけられるだろうか?映画の中に、視聴者が自分自身と置き換えられる登場人物はいるだろうか?」と言いました。私は声を上げて笑い、「お母さんがいて、お父さんがいて、お祖父さんがいて、子供達がいる。自分と重ね合わせられる人物はたくさん登場しますよ」と答えました。
すると彼は、自分のアイデアを話し始めました。白人の学校の先生を主役にして物語を語らせ、それ以外の全ての日系人を脇役にする、という案でした。私は、驚いて物が言えませんでした。彼が言っていることが信じられませんでした。
結果として、私は彼にとても良い返しをすることができました。彼と議論するのではなく、「なかなか面白いアプローチですね。その案で脚本を書き、送ってくれますか?その後で話し合いましょう。」と言ったのです。彼が脚本を送ってくることはありませんでした。
運良く、私たちはユニバーサルから協力者を得ました。フランク・プライズという素晴らしい人物でした。私は彼に電話し、「信じられないだろうけど、NBCの担当者はこの映画の主人公を白人にしたいんだそうだ。馬鹿げてるよ。」と言うと、「完全に君が正しいよ。」と言ってくれました。
役者と制作スタッフの大半に、日系人を起用したことについて、反対意見はありませんでしたか?
役者の起用については、ユニバーサルと話をつけることができましたが、プロの経験が問われる制作スタッフの起用は、より扱いづらい問題でした。私は、カメラマンにヒロ・ナリタの起用を主張しました。なぜなら、何年も前のことになりますが、彼を映画界に引き入れたのは私だったからです。
私は、助監督を務めるにはまだ経験のなかったリチャード・ハシモトを、映画監督組合に仲介し、私の助監督に任命させてくれるよう頼みました。この映画の後、彼は素晴らしい成功を収めています。
日系人の作曲家を探していた時、ポール・チハラのことを耳にしました。ユニバーサルに提案すると、「彼の名が映画のクレジットに載ったことは?」と聞かれました。「低予算の映画音楽を1度手がけたことがあるらしい。彼は素晴らしい作曲家だ。バレエやクラシックの作曲経験がある」と言いましたが、「ダメだ。映画音楽の作曲経験者が必要だ」と言われてしまいました。そこで、私は最終的には威嚇するような形で、「映画クレジットに日系人の名前がもっと載らないと、日系コミュニティに叩かれるぞ」と言いました。ユニバーサルはポールの採用を認め、実際に彼の作曲を聞いた彼らは、大変気に入っていました。その後、ユニバーサルは彼を3、4回起用し、素晴らしい作曲家として認めています。
この映画は、私たちに何を残してくれたのでしょう?なぜ、今なお人々の心に響くのでしょう?
もし、映画が放映される前、アメリカのどこかで、「第二次大戦中の日系アメリカ人に何が起こったか知っていますか?」と聞いたとしても、10人に8人は、強制収容のことは何も知らないか忘れていたでしょう。メディアには完全に葬り去られ、そしてもちろん年配の日系人にも同じように葬られていました。キャスティングには、初めはジーンも携わっていました。20代から30代の若い日系人の役者が集まり、彼らが最初に言うのは、自分の両親も収容所に居た、ということでした。ジーンは、「両親はあなた達に何か話しましたか?」と聞きましたが、彼らは、「何も」と答えていました。
映画が放送された10年か12年後、日系アメリカ人補償法が可決され、16億ドルが日系人に返還されました。1976年、2千万人が「マンザナールよさらば」を見たことが、法案可決への一歩に勢いをつけたのであれば、私は嬉しいです。
「マンザナールよさらば」は、人々の人間性に響く、普遍的な映画です。人間を描いた良い映画は、見る者全てに影響を与えます。例えば、黒人を描いた映画に影響を受けるのは黒人だけではないように、その範囲に限界はありません。もし限界がある場合、それは偏狭な映画なのでしょう。「マンザナールよさらば」には、たくさんの人間らしさが描かれているので、誰もが共感でき、自分と重ね合わせて見ることができるのです。
最後に、作品がようやくDVD化されたことについて、どのようにお考えですか?
非常に満足しています。30年間ずっと待っていましたから!
© 2011 Japanese American National Museum