ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

セブン・アローズ小学校の生徒 大叔父の広島での原爆体験をDVDに収録

セブン・アローズ小学校の6年生、コール・カワナ君は、大叔父であり広島原爆の被爆者であるアーサー・イチロー・ムラカミ氏のオーラル・ヒストリーインタビューを行った。その後2010年3月、カワナ君は日本で広島平和記念資料館館長である前田耕一郎氏に会い、資料館へそのDVDを寄贈した。

2010年の秋にはハーバード・ウエストレーク校に進学することになっているカワナ君は、セブン・アローズ小学校の必履修科目の一つとしてサービス・ラーニング(体験教育と地域奉仕活動を組み合わせた形での学習)プロジェクトを行わなければならなかった。カワナ君は2年前サンタ・クルスで親戚一同が集まった時に、親戚のオーラルヒストリーを収録したことがあった。彼はこの貴重な経験を同級生にも教えあげようと思い、オーラルヒストリーをプロジェクトのひとつに選んだ。

コール・カワナ君が大叔父アーサー・イチロー・ムラカミ氏をインタビューした。同氏の日本での被爆体験を収納したDVDが広島平和記念資料館に収められる。

まずカワナ君は、大叔父であるムラカミ氏へ話を聞くことから始めた。ムラカミ氏は1931年にロング・ビーチで生まれた。祖父母と両親と一緒に住み、トーランスの小学校に通った。1941年、ムラカミ氏の祖父母が広島に帰国する時、「お前も一緒に行くか」と聞かれ同行した。その9ヶ月後、真珠湾が攻撃された。ムラカミ氏は、真珠湾攻撃を祝うパレードが行われたのを覚えていると言う。

「戦争中アメリカ人として日本に住んでいてどんな感じでしたか」とカワナ君は大叔父に聞いた。

「確かにわれわれの事を余り良く思っていない連中はいたが、基本的には学校でもみんな私を受け入れてくれたよ。」と話す。「男たちの多くは戦争に出ていたので、われわれ学生は勤労奉仕をさせられた。自分たちのクラスは食料倉庫に割り当てられていたので、米や醤油を荷馬車に積んで、港で待機している船に積み込むのを手伝ったよ」

また、カワナ君が「日本人は、戦争末期でもまだこの戦争に勝つと思っていたか」と大叔父に聞くと、「自分たちも最初のころはライフル銃を持っていたけど、その後全部兵隊に没収されてしまってね。手元には何の武器も残ってなかったんだ。だから、我々は竹を取ってきて、その先を尖らせ、それで敵を刺し殺す練習に励め、なんて言われたんだ。武器も何もなくて、とても希望なんて持てなかったよ」と話した。

ムラカミ氏は、広島に原爆が落とされた1945年8月6日の前日、錆びた釘が足に刺さり怪我をした。もしそれがなかったら、自分も爆心地にいただろうという。「足が腫れてうまく歩けなかった。あの日われわれのクラスは二つのグループに分けられて、ひとつは倉庫へ、もうひとつのグループは広島市内の清掃に繰り出された。」ムラカミ氏自身、もともとは市内清掃グループに割り当てられていたのだが、足を怪我していたため倉庫グループに入れられたのだ。倉庫は爆心地から2.5マイルほどの所だった。彼は爆風で倉庫のドアから投げ出され、そのまま気を失った。倉庫は完全に倒壊した。彼は病院に運ばれ、出血していた腕を治療してもらったが、他に重症患者がたくさんいたので、その後すぐ病院を出された。

病院を出た彼は、「おじさんの制服屋に向かった」という。その制服屋へ行くには、町の中心街を通らねばならなかった。その時を思い起こし、「途中路上にたくさんの死体が転がっていた。皆が助けを求めるので、手を差し出すと、皮膚がつるりと剥げ落ちてしまうんだ。それで私は下を見るようにして走ったんだ」と話す。結局、原爆で跡形もなくなった市内へ清掃に行った25人のクラスメートは全員亡くなったという。

1947年、ムラカミ氏はカリフォルニアに戻った。そこで初めて彼の両親が収容所に拘束されいたことを知った。

その3年後、彼は米陸軍に入り、朝鮮戦争に従軍した。横浜に配属され、戦後初めて広島を再訪した。それは彼にとって非常につらい経験だった。「そのことは余り話したくないし、思い出したくもない」と話す。「普通では知りようもない色々なことを知ってしまてね。それで、自分自身に問いかけてみたんだ。私は何で今ここにいるのかって。そして、自分の知っていることを子供たちに教えるためなんだって言うことに気付いたんだ」

インタビューの際、原爆について大叔父の意見を聞くと、「米国としてもやらなくてはいけないことだったんだ。原爆があったからこそ、戦争を終わった」と言う。しかし、「もう二度と原爆が落とされるようなことがあってはならない」とも付け加えた。

カワナ君が大叔父の話をDVDに収録したのは、「歴史を知らなければ、人は同じ事を繰り返す」という有名な言葉のためだという。そしてカワナ君は、セブン・アローズの生徒たちのために、オーラルヒストリーインタビューによる個人史を記録する方法を9分のDVDにまとめた。

「どの家族にも、何世代にも渡って語り継がれるべき話があります。それらの話を個人の遺産として残していくためにも、どの家族も記録保存していくべきなんです。」とカワナ君は言う。

そんなカワナ君がDVD を作成する上で、一番大変だったことは、誰に話を聞き、どんな質問をするかだという。一方、彼の一番好きなことは、カメラを使って、音声を入れ、編集し、映画を作ったことだそうだ。

カワナ君の父ユージ・カワナ氏は、「コールは、何世代も前の先祖が自分たちの子孫がよりよい生活が出来るよう随分犠牲を払ってきたということを学びました。これこそがアメリカの財産なんです」と話す。

カワナ君はアジア・フープ・リーグでバスケットボールを行い、その他にもサーフィンやピアノ演奏、そして最近はハーバード・ウエストレーク校のバンドに所属しドラムをたたいている。ムラカミ氏とのインタビューを通して、カワナ君と同様に大叔父も日本武士道の芸術ともいえる剣道をやる事を知った。剣道は戦闘的意味あいがあるということで、第二次世界大戦中は禁止されてたが、1952年には解禁された。ムラカミ氏は剣道の世界では最高位の七段を持っている。

カワノ君と姉のブルックさんはご両親ユージとエレンと一緒にカリフォルニア州マリブに在住。


*本稿は、2010年7月15日の『Palisadian-Post』からの転載です。 

© 2010 Palisadian-Post

a-bomb cole kawana family history hibakusha hiroshima oral history student