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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

幻の文芸誌『收穫』-その2/4

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2. 『收穫』の誕生とその後の経過

『收穫』は1936年12月、北米詩人協会の機関誌としてロサンゼルスで創刊され、第二号から文芸連盟の機関誌となり、1939年6月の第六号をもって休刊となった。創刊に当たっては加川文一(1911年生まれ)が中心的な役割を果たしている。 加川は呼び寄せ一世で、日本語と英語で詩を書いた。1930年に詩人で評論家のイーヴァ・ウィンターズの序文を載せた英詩集『ヒドン・フレイム』(Hidden Flame)を発表し、詩人として全米にその名が知られていた。

北米詩人協会は1936年9月12日、南加詩人協会を改名して生まれた組織である。発足当日の会合は盛会で、遠方の片井渓巌子夫妻や初参加の松田露子(1904年生まれ)などを含めて16名が出席し、夜中まで盛り上がったという(『羅府新報』1936年9月24日)。

新しい組織の趣意は会員の作品発表機関を作ること、 文化団体として一般社会に進歩的な貢献をすること、二世の情操教育の一助になること、英語で文学運動をしている二世との提携により言語の相違でかけ離れがちな両者の間をもっと親密にすること、などである。機関誌『收穫』の名は投票によって決められた。年四回の発行を予定し、創刊号の編集者として加川文一、林田盛雄、宮崎史郎(ペンネームとして原信吉、遠艾太郎、1910年生まれ)、伊丹明、上山平八が選ばれ、内容は詩を中心とする文芸総合雑誌とされた。

前述のように創刊号は1936年12月に発行されている。日本で二・二六事件が起こった年であり、翌1937年には盧溝橋事件によって日中戦争が始まっている。 『收穫』発行のための実務は上山平八が担当した。加川文一が「創刊の言葉」を書いている。題字と序文をロサンゼルスを訪問する予定の島崎藤村に依頼する計画であったが、旅行日程が変更になり実現しなかったという。詩が31編で圧倒的に多く、「詩を中心とする文芸総合雑誌」となってはいない。寄稿者は既述の編集者以外に、塚本嶺南(1889年生まれ)、外川明(1903三年生まれ)、沼田利平、平田露草、唐津文夫、片井渓巌子、中西真佐夫、矢野喜代士、伊丹明など当時の日系新聞の文芸欄で活躍し、その力量を評価されていた人々が多く、南カリフォルニアの会員が中心となっている。また33名の寄稿者のうち、矢野喜代士、伊丹明、井上生於、中頭良之輔、矢野君子、島崎正治、宮崎史郎(版画)など帰米二世が10名ほどいる。英語欄には当時の二世文学で際立っていたトヨ・スエモト(1916年生まれ、現存)、チエ・モウリ(1915年生まれ、現存)、の詩が収められている。

前列左より渥美久雄、上山平八、武田露二、後列左より上山浦路、林田盛夫夫人、石垣綾子、チエ・モウリ(1930年代)

第二号(1937年5月発行と推測)は新しく発足した文芸連盟の機関誌第一号でもある。文芸連盟は北米詩人協会がサンフランシスコ文芸協会に働きかけ、両者で発足させた組織で(北米詩人協会とサンフランシスコ文芸協会はそのまま存続)、編集は困難を伴ったが共同で行なわれた。ただ、今まで北米詩人協会の中心的な存在であった加川文一は私的な事情でこの協会を離れ、『收穫』同人の名簿から名前が消えている。本号から林田盛雄が発行の責任者となり、最後の六号まで務めた。

創刊号に比べると内容が多彩になっている。創作が5編、戯曲が1編、短歌、俳句も掲載され、評論も増えて文芸総合誌らしくなった。詩はロサンゼルスの同人が中心となっているが、評論、創作、戯曲などはほとんどサンフランシスコの同人の作品であるのが注目される。東城小南、野村信一郎、中川卓、松野珠樹(1902年生まれ)、加藤三郎、田原紅人などのベテラン、秋山貢(1911年生まれ)、大久保忠栄などの若い人たちがサンフランシスコから寄稿している。シアトルの糸井野菊(『ニセイ・ドーター』の著者モニカ・ソネの母)も初めて詩を寄せている。

この号には英語の作品は見られない。原稿は集まったのだが、日本で印刷が可能であるかどうかの問い合わせをする時間がなかったからだった。

第三号(1937年9月)は第二号の形式をほぼ継承しているが、新たに随筆のページを設け、5編載せている。東城小南の随筆「地球界隈」は『收穫』の中で日中戦争を最初に意識した作品である。第三号で最も特徴的なのは10篇の英語の作品が収められていることである。詩が7編、短歌が3篇で、イワオ・カワカミ(1907年生まれ)、トヨ・スエモト、メアリ・コレナガなどの作品が掲載されている。

第四号(1938年4月)はサンフランシスコ文芸協会の秋元貢、東城小南、大久保忠栄、松野珠樹、加藤三郎、野村信一郎が編集した。「在米日本人間の最高に位する作品発表機関としての権威を持したい」という意欲から、彼らが掲載作品を厳選したため、全体に質的な向上がみられ、好評であった。松野珠樹の作品「戦時小景」は六号まで続いた『收穫』の中で唯一の中篇小説であり、また拡大する日中戦争に触れているという点で重要である。ちなみに武田露二の短歌と城しげるの随筆も日中戦争を扱っている。北米短歌協会の作品はこの分野が手薄なこの文芸総合雑誌にとって歓迎すべきことであった。

この号から英語欄が廃止されている。日本では英語の活字の組み賃が高いこと、税関を通るのにやかましいこと、近々二世の間にロサンゼルスとサンフランシスコで文芸誌が創刊されるということがその理由である。

第五号(1938年10月)の編集はシアトルの糸井野菊と狩野輝光が担当した。第四号とは異なり、集まった原稿はほとんど皆採用したので、ページ数は通常の二倍近くになり、作品の質にばらつきが見られる。北米短歌協会顧問の泊良彦(1887年生まれ)が短歌論を、同顧問の高山泥草が作品を特別寄稿しており、民之助が俳句論を展開している。前号に引き続き短詩型文学を重視しようとする姿勢の現れである。川柳が始めて掲載されている。特集も初めて組まれている。「故渥美久雄氏を悼む」と同人の「自己紹介」、「二世文人へ与える言葉」である。また日本語に訳されたジョウ・オオヤマ(1912年生まれ)の短編が載っている。

第六号(1939年6月)の編集はロサンゼルスの四人の女性(江上初江、松田露子、林田三津子、井原静枝)によって行なわれたが、編集方針にとくに変化は認められない。江上初江と森百太郎がロサンゼルスの同人としては珍しく短編を寄せている。また『收穫』の在り方とその作品を厳しく批判する二編の評論が収められている。『收穫』は本号で休刊となるが、その理由は財政上の問題と人間関係の難しさにあったといわれている。しかし『收穫』それ自体も内容的に曲がり角にきていたといえよう。日本の軍事的行動の支援を表明する作品が目立つのも本号の特徴である。特集として「故岡草志を悼む」がある。

その3>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shuppan

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このシリーズについて

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。