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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

アメリカ東海岸唯一の文芸誌『NY文藝』―その3/9

その2>>

創刊号に掲載された作品の中で創作の占める比率が圧倒的に高く、評論や随筆、詩、短歌は少ない。これが『NY文藝』の特徴で、この特徴は最後まで維持されることになる。

カール・ヨネダと三田穢土が作品を寄せている。カール・ヨネダは帰米二世で労働運動の活動家として日本でもよく知られている。三田穢土は上山平八のペンネームである。「ハリウッドの怪人」といわれた上山草人と女優・山川浦路の一人息子で、1930年代に労働者の生活を詠む詩を西海岸の日系新聞に多く発表し、当時の有力な文芸同人誌『收穫』の編集にも携わっていた。秋谷一郎はサンフランシスコにいた時、ロサンゼルスの三田とよく会っていたという。

第2号(1956年6月)において創刊号の合評会の記事が載っている。お互いに批判し励まし合うことによって文学的力量を高める、というのがあべの考えであった(「北米新報・春季文芸特別付録」の座談会)。それを実行に移したのがこの合評会である。西野鉄鎚(家具製作所経営)、崎村白津(川柳結社の主宰者)、それに櫛田句陽が新たに同人となっている。

第3号(1957年12月)に伊藤新子(ペンネームは池田まり子)(留学生)と橋本京詩(クリーニング業)、大村敦(演劇評論家、骨董修繕業)、桜庭ケイ(留学生、後に画家となる。あべよしおの妻)が新しく参加して作品を発表している。そして、これら4人の同人は、その後も積極的に作品を寄せた。

第4号(1958年10月)は創作の数が6編と多く、ページ数がかなり増えている。『NY文藝』の在り方について、あべが「編集後記」で、「長い目でみれば十年間には十回の発行、その中からアメリカに住む日本人の典型が生きた人間の暮しのいぶきを日本文学の本流にふきこむ作品が、たとえ一つでも生れでれば、文学史的には特異な意義を持つものとなろう。たとえ生れでなかったとしても、それにむかってそそがれる努力は、アメリカで日本語をバカにして英語をあやつって働いて食って死んでいくだけの処世術達者の成功では買えない貴いものとなるであろう」と書いている。また本号には『北米新報』に「日本通信」を送っている松本正雄が、後で大きな議論を巻き起こすことになる『NY文藝』論を寄せている。

第5号(1959年10月)でカール・ヨネダと林徹磨(留学生、後に大学講師)が同人となっている。あべが「編集後記」で、さらに文学について論じて、「[文学をやっていくためには]まず人間への愛情、人生への尊敬、これをはばむものへの反抗が基となるであろう。いわゆる生活派の文学論を遵奉はしないが、社会と切り離して人生も文学もなく、美への渇望なくして芸術はない、というところから出発し、これをゆがめるもの汚すものの醜さを叩きつける生活感情のたくましさがほしい」と述べている。
第6号(1960年10月)から秋谷が編集兼発行人となった。あべが妻の桜庭ケイと共に日本へ帰ったからである。秋谷はあべについて『NY文藝』を育てあげてきた人として高く評価している(「編集後記」)。相馬真知子(本名は山中真知子)(主婦)がカリフォルニアから投稿している。後に『南加文藝』の主要な同人の一人となる。

第7号(1961年12月)は創作、随筆のいずれにも多くの作品が集まり、236ページという大部の号になっている。相馬真知子が正式な同人となる。北見俊郎(経済学者、関東学院助教授)も同人に加わる。漢字を用いないで、ひらがなだけで書いた林徹磨の実験作品が掲載されている。後に話題となったものである。

第8号(1963年11月)は予定より1年ほど遅れて発行された。ページ数も第7号の半分以下になっている。いずれも財政上の理由からである。花江マリオが珍しく戯曲を書いている。創作中心の『NY文藝』で戯曲が掲載されるのはこれが初めてである。西野鉄鎚が短編「林檎の老木」を書いているが、これが遺作となった。

第9号(1965年11月)も財政的な理由で発行が遅れた。「西野鉄鎚追悼特集」が組まれている。故人と親交のあった石垣綾子が追悼文を寄せている。新たにルーク・ヤング(台湾出身、デュポン社勤務)と辻あきひこ(戦後渡米しロサンゼルス在住)が同人となる。

第10号(1968年7月)は「第十号・記念号」となっている。秋谷一郎の病気(脳卒中)のため、この「記念号」の発行が予定よりかなり遅れてしまった。有力メンバーの西茂樹、橋本京詩、桜庭ケイの作品が見られない。「十二年の足跡」として秋谷が『NY文藝』の歴史を振り返っている。史料として有益である。これまでも、日本へ帰った同人や日本にいる支持者を媒介として『NY文藝』と日本との結びつきは強かったが、本号の「対談=石垣綾子・松本正雄」(二人とも同人ではない)もその例である。河内芳夫(歯科技工士)の短編は創刊10周年の記念行事として実施した懸賞小説募集の応募作品である。同人以外の人を対象としたが、応募者が河内一人であったといって秋谷は嘆いている。ロサンゼルスの『南加文藝』とブラジルの『コロニア文学』が紹介されているが、秋谷によれば、これらの同人と直接交流があったわけではないという。

第11号(1975年2月)は前号から7年後に発行され、「大村敦・秋谷聡子追悼号」となっている。発行が遅れたのは秋谷一郎が病気で再三倒れたこと、妻・聡子(ニューヨーク総領事館勤務)の不幸があったことなどのためである。大村と秋谷聡子を追悼するために、大村の未発表の短編と秋谷聡子のやはり未発表の詩が集められている。同人による追悼文がないのは、秋田一郎にそのような依頼をする時間的余裕がなかったからであった。新しい同人の唐木康江(ニューヨークの法律事務所勤務)がエッセイを書いている。この第11号の「編集後記」で、秋谷は「これからは是非定期的発行を続けて行きたいと思います」と記しているが、それは実現せず、結局、本号が最終号となった。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

Japanese literature new york NY bungei postwar

このシリーズについて

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。