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一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その7

>>その6

商業及び他事業への進出

最初に農園に登場した日本人の商売は銭湯だった。農園経営者側は建物、燃料、水を提供し、銭湯経営者は労働者から月々入浴料を撤収した。また各キャンプには大ゴックと呼ばれるコック長、又はコック夫婦がおり、月極めの手数料で、20~30名の労働者の食事を用意していた。ワイパフのある一世労働者によれば、献立はうどんやたくあんのようなごく簡単なものが主流で、あまり美味しいものではなかったそうである。彼らは、少ない給料から6~7ドルを食事代と洗濯代に立てていた。

女性の多くは農園仕事の傍ら、キャンプに住む独身男性の洗濯、アイロンがけ、裁縫を引き受けた。労働者の中には、野菜を育て、販売または生活必需品と交換したり、鶏や豚を飼育する者もいた。他に豆腐、うどん、かまぼこ、その他の様々な日本食品を製造する者もいた。労働キャンプ住民の要望に応じて農園仕事が終った後、理髪師、助産婦、大工、鍛冶屋などの副業をする者もいた。

契約期間が切れると多くの労働者たちはより良い賃金、環境、生活を求めて農園を去っていった。例えばある一世は、石工・レンガ職人に最終的に落ち着くまで、コック、床屋、大工など多種多様の仕事を経験した。

19世紀の末期にはたくさんの日本人移民たちが農園を離れ、周辺の町やホノルル、ヒロなどの都市へ進出するようになった。農園の町に残留した人々は労働者相手の商売を始め、ホノルル、ヒロに出た人も貯金を資本に小規模の事業を営みだした。

嫌なホレホレ カライをやめて(砂糖きびの茎切り)
やめて行きましょホノルルへ

しかし、商売の第一歩を踏み出すのはそれほど簡単ではなかった。日本人移民はほとんど銀行から相手にされなかったため、彼らにとって資金調達の頼りは「頼母子講(たのもしこう)」であった。頼母子講は、知り合い友人などが集まったグループからなっており、多くの場合は同県人で構成されていた。頼母子講のメンバーは、入会ともに指定の金額を支払い、それが彼らの合同資金となった。そして、それをメンバーが各自の必要、または入札、抽選の結果に応じ資金を受ける仕組みだった。

仲本トクシンも、頼母子講を利用した一世の一人である。彼はハワイに到着してから始めの一ヶ月は給料をもらえなかったため、仕方なく友人から10ドル借りて頼母子講に入った。彼の入った月は、頼母子講がスタートしたばかりだったので、3ヶ月目には配当金を手に入れることができた。そして、すぐに70ドルもの大金を沖縄に送ることもできた。この頼母子講が7ヶ月目に解散となると、仲本は次に自分で10人編成の新しい頼母子講を主催した。2

1920年にハワイへ渡った上村テイジは、耕地で培った技術を使って自分の商売を始めた。最初オラ砂糖会社で見習鍛冶屋として働き、後にヒロのカメハメハ街に自分の店を持ったのである。このように元耕地労働者たちの多くは耕地内で取得した技術で生計を立てた。

89歳になった上村は今も朝6時に起き、仕事へ向かう。「父は自製のケインナイフ(砂糖きび用ナイフ)に絶対の自信を持っています。ハワイで彼より優れたナイフを作れる人はいません。」と、娘のレイコは語る。現在も、上村の名はナイフの名人としてハワイ全諸島に響き渡り、マウイ、ラナイ、モロカイ、ハワイ各島から注文が殺到するほどである。

彼のトレードマークはフィリピンのマホガニ材で作られたナイフの握りの独特な形である。その鉄のたたき具合、引き伸ばし、そして練り加減などの過程は、上村が「絶対人には言わない秘密」だと娘婿のヴィンセントは言う。3

家族経営のコーヒーショップが徐々に発展、後にホテルとなった話もある。最初、真子オサメのコーヒーショップには長椅子一つしかなかった。その椅子の片隅にはコーヒーを飲む客が、反対の端にはうどんを食べる客が座るのが精一杯だった。その頃、コナの町にはいろいろな雑貨品を売る人がたくさん集まってきていた。その人たちは普通パリスホテルに泊まったが、彼らの運転手は同じ宿に宿泊することができなかった。困った運転手たちは、コーヒーショップに安い料金で泊まらせてくれないかと頼んだのである。そこで、シングルベットを2、3台購入して店の中に運転手たちを止めるようになり、真子(マナゴ)ホテルが生まれたのである。4

1900年までにハワイ諸島には100店以上もの日本人商店ができた。これらはほとんどビジネスの中心地であるホノルルにあったが、ヒロにも少なくとも18店くらいは存在していたようである。


他事業の発展:パイナップル栽培、米作、コーヒー栽培、漁業

一世に多岐にわたる仕事や投資の機会を与えたのは、パイナップル、コーヒー栽培、商業、漁業、米作などであった。パイナップル産業は、1900年までにハワイ諸島の第二の産業として大きく進歩を遂げていた。福岡県出身の手島弥助は、パイナップル栽培を手がけた最初の日本人である。彼は、1901年オアフ島ワヒアワ地方に土地を借りて栽培を始めた。それから僅か12年後には、オアフ島だけでもたくさんの日本人移民が合計70万ドルもの資金を投入し、6,000エーカーでパイナップル栽培を行っていた。

1930年までに3,000人もの日本人がパイナップル農園労働者として働くようになった。パイナップルの仕事は砂糖きび農園の仕事より日給はよかったが、仕事は不安定だった。5また、1930年代の世界恐慌の影響がパイナップル自作農民に及び、多くは砂糖きび農園の労働に戻らざるをえなくなった。

コーヒー栽培や米作も、日本人農家に小規模ながらも発展する機会を与えた。1900年にコーヒー相場が世界的に暴落した際、白人農家の多くはコーヒー栽培に見切りをつけてしまった。これが、砂糖きび農園からコナへ向かう日本人移民達にチャンスを与えたのである。そして、1914年までにコナ地方の3,780エーカー以上が一世コーヒー農家により耕作され、彼らはハワイの全収穫量のうち80%以上を生産するほどであった。6

一方、特に和歌山県、山口県の沿岸地方出身の移民たちは、農園労働契約が切れるにしたがい、その技術を生かして漁業の分野へと進んだ。魚介類を好む日本人の数が増えるにつれ、その需要も急激に増えたのである。

1899年、中筋五郎吉は、ハワイ漁業界に革命的変化をもたらした。長さ32フィート(9.6メートル)、幅5.8フィート(1.74メートル)の遠洋マグロ専用漁船を建造し、それにガソリンエンジンを取付け漁業範囲をぐんと伸ばしたのである。他の日本人漁師も彼に習うようになったが、エンジンは船本体より値段が高かったので、10人前後のグループで資金を集めてエンジンを購入するのが普通だった。7

1913年には、300人ほどの一世がガソリンエンジン付の木造漁船で漁業に従事していた。その後、1930年までに日本人漁師は約1,000人にまで増え、年間200万ドルの売上を誇った。しかし、第二次世界大戦勃発とともに、日本人による漁業は全て停止となってしまったのである。

その8>>

注釈:
1.テルヤ・コスケ、インタビュー。Uchinanchu、523ページ。
2. 仲本トクシン、インタビュー。Uchinanchu、394ページ。
3. 上村テイジ、レイコ&ヴィンセント・ストリルシック、1990年7月18日ハワイ州ヒロにてインタビュー。上村テイジは1991年6月27日に死去。
4. 真子オサメ、インタビュー。1980年11月24日、エスニック・スタディーズ・オーラル・ヒストリー・プロジェクト(ESOHP)、テープNo.9-19-1-80TR。
5. 氏家キクジ、ハルオ・ヤマモトとウォーレン・ニシモトによるインタビュー。1979年10月4日、ESOHP、626-627ページ。
6. Baron Goto著、 “Ethnic Groups and the Coffee Industry in Hawaii,” Hawaii Journal of History, 16, 1982。
7. Michi Kodama-Nishimoto, Warren S. Nishimoto, and Cynthia A. Oshiro編、Hanahana(ホノルル、1984)62-63ページ。


*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」(1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。

© 1992 Japanese American National Museum

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