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ヨセミテ紀行 - その2

>>その1

30分すればヨセミテに着くルート120は雪のため閉鎖、往復4時間も遠回りしてレイク・タホまで行き、ネバダ州側のホテルに一泊を余儀なくされた。日本全国とほぼ同じ面積を持つカリフォルニア州、ヨセミテは青森県とほぼ同じ緯度にある。北部は新緑がまぶしく、南カリフォルニアとの違いが鮮明だ。

ヨセミテは白人パイオニアに征服されるまではアメリカ先住民が住んでいた所である。大氷河によって切り開かれた山頂にできた谷間で100メートルを越す高いredwood(アメリカ杉)が林立、ハーフ・ドームやエルキャピタンの自然の壮大さに圧倒される景観だ。

グレイシャーポイントからの眺め、ヨセミテの景観(左がエルキャピタン、中央に見えるのがハーフ・ドーム) (写真:筆者提供)

標高7000フィート(約2000メートル)にあるため、5月初旬でも雪があちこちに積もって多くの道が閉鎖されていた。ここは5月とはいえまだ「冬」であった。公園内のトレイル(散歩道)でさえ舗装が行き届き、老若男女の別なく山登りなどが可能で、作業に従事した人々に感謝の念がこみ上げてきた。

シエラネバダ山脈の雪山から流れる雪解け水(カリフォルニア州民の灌漑水のほとんどをまかなう)はヨセミテ渓谷へ滝となって、マセード川へ流れる。激流の川を見つめていると、昔見た映画『帰らざる河 (The River of No Return)』が思い出された。マリリン・モンロー主演の希少な西部劇で、川におぼれたマリリンをロバート・ミッチャムが助ける場面である。カナダのバンフの町を流れるボー川での撮影だが、マリリンの美貌と、ハスキーな声で歌うテーマ・ソングが魅力的で、今もって忘れがたい作品だ。

ヨセミテには2泊、予約しておいたテント小屋はエルキャピタンの真下、マセード川がすぐそばを流れていた。インターネットは使用不可能、久しぶりにコンピューターなしの素朴な生活スタイルを味わった。共同のトイレやシャワーが設置され、お湯が利用できたのはありがたかった。夜になると寒くて身が凍えそうになったが、電気接続は可能で、さいわい持参した電気ヒーターが役にたった。午後5時以降のキャンプファイヤー(焚き火)を楽しんだ。

左隣のキャビンはネブラスカ州から、右はカリフォルニア州ベンチュラ郡からの家族と仲良しになった。かれらの説明によると昨夜も2日前の晩も熊が出てきたという。熊が食べ物欲しさに出てくるので化粧品や全ての食べ物は鉄製の容器の中に入れ鍵をして保存しなければならない。熊が車の窓ガラスを割って食物をあさることもあると、注意を促された。係員の説明によると、熊が出てきた時は、大声を出して叫び相手を威嚇すればいい。決して抵抗してはならないというが、実際遭遇した時はどのようになるか心配であった。昼間ゴールデンベアー(金色の熊)が草を食べていたところをみたが、遠く離れたところであったせいか人に害を与えることはなかった。鹿が3匹現れた。リスが食べ物ほしさに私の寝ている布団の上を這い回る。

隣のキャビンの家族と記念撮影 (写真:筆者提供)

大中小さまざまな滝があり、中位のてっぺんまで登山を試みた。往復5時間、登りは大変難儀で、頂上まで後30分のところで音を上げた。水しぶきと急な勾配にそれ以上は無理だった。途中ミラー・レイクに立ち寄った。ハーフ・ドームが逆さで写っている池を大きくしたようなきれいなよどみであった。今年は雨量が多かったせいで雪解け水となってヨセミテ渓谷のあちこちに滝が流れていた。その半数以上が夏には消えうせる運命だ。デルタ地帯の一角にできた小さな湖の湖畔では、どこかの小・中児童らが課外授業として来ていたのであろう子供たちが、思い思いに写生、日記、詩、作文、写真撮影などに取り組んでいたのを見てほほえましく思った。

ミラーレイクにて。ハーフドームが逆さになって写っている。 (写真:筆者提供)

ヨセミテに別れを告げ、車で一時間半ほど離れたセコイア国立公園にも立ち寄ったが、雪で道は閉ざされ徒歩2時間とのレンジャーの説明にセコイア大木は断念した。

帰路はカリフォルニア中央地帯ルート99で一路ロサンゼルスへ向かった。中部カリフォルニアは大平野でフレズノは農業地帯、見渡す限り果樹園と野菜畑が続く。『エデンの東 (The East of Eden)』や『怒りのぶどう (The Grapes of Wrath)』などで知られるピュリッツアー賞とノーベル文学賞受賞作家ジョン・スタインベックはサリナスで生まれ、農業に携わる人々の悲哀と家族の愛情物語を描き、映画化され一躍名声を得た。映画『エデンの東 (The East of Eden)』、『理由なき反抗 (Rebel  Without Course)』、『ジャイアンツ (Giant)』などで主演したジェイムス・ディーンは24歳にしてコレームで自動車事故で死亡、多くの人に惜しまれた。記念碑が立てられているのもこの一帯だ。そういえば和製ジェームス・ディーンと呼ばれた赤木圭一郎は早逝で同じような境遇を偲び悲嘆にくれた人が多くいることが脳裏に浮かんでくる。

また、この中部カリフォルニアは、日系人のゆかりの地でもあることを忘れてはいけない。カリフォルニア大学デーヴィス校のイサオ・フジモト教授によると、セントラル・バレー(中部カリフォルニア)の農業は非常に多様な人によって営まれてたという。日系人は和歌山、山口、熊本、広島などから多く移民として来た。フジモト教授の父親は、和歌山県の江住村からセントラルバレーへ移住した一人であるが、江住村人会まであったという。日系人は非常に生産的で、1917年にアスパラガス、オニオン、トマト、ベリー(イチゴなど)とメロンの90%を栽培していた。これらの農作物の花卉の70%、種の50%は日系人の手によるものだったという。今では日系人の農民を見かけることはほとんど無く、東南アジアからの移民らがイチゴ栽培に取り組んでいるが、日系人はロサンゼルス郡の農業の発展に貢献してきた、とある記者のインタービューにこたえている。

新一世としての私のアメリカ生活は40年がすぎた。息子や娘に日系としてのアイデンティティーをしっかり持つように教育してきた。二人とも日本語による日常会話は支障をきたさない。息子はコンピューターゲームソフトのプログラマーで日夜ヒット製品作成と取り組んでいる。娘は日本語共同学園中等部時に弁論大会で優勝、日本往復切符を獲得した。将来の伴侶は日系人ではないが、優しくて優秀な人だと賞賛を惜しまない。娘夫婦は、北米沖縄県人会の催し物や私の本「アメリカに生きる」の出版記念会、LA近郊の日帰り旅行にも喜んで参加してくれた。我々家族はことあるごとに集まって、テレビ・ゲーム、テレビ映画、レストランで食事と一家団欒の楽しい生活を送っている。娘夫婦は東部へ移っても夏休みの3ヶ月と全てのホリデーにはLAに来るとのことなので、私たち夫婦の生活スタイルはさして変わりはないと思っている。

娘夫婦との4泊5日のヨセミテの旅を終え、新一世として根を下ろして40年の私が、肥沃なカリフォルニア大地にふと思い出したのは「我が故郷沖縄に基地のない平和な春がいつ訪れるのであろうか」ということだった。フリーウェーから見える小高い丘にはカリフォルニアの州花ゴールデン・ポピーが満開で、間もなく終わる我々の旅を祝福しているかのようで嬉しかった。

(写真:筆者提供)

© 2010 Sadao Tome

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