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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2010/1/4/repat-story/

日本にて:ある日系カナダ人の移住そして引き揚げ-その2

コメント

>>その1

日本への引き揚げ

父は日本に土地を持っていました。それがカナダに来た理由でした。 日本へ送金をし、土地を守り抜くことに責任を感じていました。父は自分の代で土地を失うことを全く望んでいませんでした。

父の死後、母は特にする事がなく、私によく日本語を教えてくれていました。松下家もレモンクリークにいたので、リリー松下も日本語を習いに来てました。当時、レモンクリークには(日系の)コミュニティーがあり、華道や裁縫のようなちょっとした文化活動が行われており、奥さん達はよく集まっていました。私はそれまでこんなに多くの日本人を見たことがなかったので、 この環境が気に入ってました。みんな同じ人種なんだと。戦争が始まる前までは、バークイトラムにいた人達との違和感を感じることはありませんでした。ポテトやひまわりの種を売りに来た多くのバークィトラムの人達の周りでふざけているのが好きでした。

戦前、両親は、私をカナダに残し農園の経営を任せようと考えていました。私はカナダで生まれ育っているので、「博ちゃんの考えは変えられないよ」と言ってました。「博史をカナダへ残して(日本へ)帰ることになるだろうが、たとえ農園を継がなかったとしても、ニューウェストミニスターあたりに行って、パン屋か何か始められるだろう。」カナダでの私のことがすべて落ち着いたら、両親は日本に帰るつもりでいました。

父は平均的な日本人で、当時の平凡な日本人でした。 他の日本人との違いはありませんでした。父はとても正直で、実直でした。おそらく、戦争に行けと言われたら行ったでしょう。当時、私は行けと言われても戦争には行きたくありませんでした。 母も平凡な女性でした。私のことをとても心配してくれて、小さい頃から日本語を教えてくれていました。私も漢字をよく勉強しました。 戦後日本へ戻ってからのことすらあまりよく覚えていないのですが、母は、本当の先生ではなく、浅水にある書道に熱心な農家で育っています。

(戦後)私たちは日本に帰らなければなりませんでした。他に選択の余地はありませんでした。母は、日本に残してきた初子とトミエのことを心配していました。 当時の私は15歳か16歳で、日本語がほとんど話せなかったので、日本には行きたくありませんでした。日本語の勉強はしていましたが、会話をするには十分ではなかったのです。心の中では、日本は戦争に負けたということはわかっていたので、(日本へ行けば)何が起こるのかはわからないと知っていました。日本には食べ物がないことを聞いたり読んだりしていました。カナダへ戻って来てアメリカ人と付き合うならまだしも、日本人と付き合うのは苦手でした。同じ種類の人間だとは分かっていましたが、今カナダで他の人たちとうまくやっていたように、日本にいる日本人と仲良くやっていけるかどうかわかりませんでした。おそらく、カナダ人以上に、日本人とはうまくやっていけるでしょうが、ただそうするには努力が必要でした。

私たち日系カナダ人は、敗戦国日本へ戻るのだろうと感じていました。しかしこの場合、そのほとんどが、日本へ戻るべきではなく、カナダにこのまま残るべきだと感じていました。多くの人はそう思ってことを認めたくなかったかも知れませんが、私の場合はそうでした。

私たちは、ジェネラルM.C.メイグス号で日本へやってきました。 戦前、指揮艦として使われていた船で、ほとんどの日系カナダ人はこの船で日本へ帰国しました。私たちと同じ船には、豪華なファーストクラスの客室があり、敗戦で爆撃された日本を観光するアメリカ人らが乗船していました。彼らは上のデッキから船の左側の我々を引き揚げ者として眺めてました。

すべての船が入港する横浜の南にある浦賀へ、私たちの船は入港しました。それはとても暑い日でした。浦賀はコモドー・マッシュー・C・ペリーが1853年に来船した場所でもあります。東京や横浜にはたくさんの潜水艦が沈んでいたので、大きい船は寄港できず、我々の船は浦賀に入港したのです。
 
船が港に入るとアメリカ海軍のモーターボートが船を検査するために乗船して来ました。デッキにいた何人かの日系二世は 「あっ、アメリカ人が来た。日本は本当に戦争に負けたんだ。」と言いました。その時まで、多くは日本が本当に戦争に負けたとは信じていませんでした。

その後、タグボートのようなもが積み荷を降ろしに来ました。その船には中国かどこかから引き揚げてきた日本陸軍の男達がたくさん乗っていました。彼らは積み荷を降ろすのに慣れていました。

彼らはとても貧相に見えました。船に乗り込み、シートや毛布で体を巻きつけました。彼らは何も、トイレットペーパーですら持っていなかったんです。それほどひどい状態でした。人々誘導し、他の軍人たちに命令を出している何人かのオフィサーは、かなり賢そうにみえましたが。

仮施設に連れて行かれ、そこでやっと私たちは食べることができました。それまでは、何も食べ物は用意されなかったのです。ブリキのお椀にご飯と具のはいっていない味噌汁が配給され、蚊帳の中で眠りました。

2週間後、私たちは引き揚げ者として日本政府の管轄下となり、行きたいところへいけることになりました。私たちの場合、土地のある上沼へ行かなくてはなりませんでしたが、連絡が取れませんでした。一本の電話も出来なかったのです。とても混んでいたため汽車に乗ることができず、時間通りに動かなかったりで、2週間もの間、いったいいつ仙台に戻れるのか分かりませんでした。

九州には何千もの日系二世がいました。東京は廃墟でした。私たちは、今でも米軍の軍港があり、当時は日本の海軍の基地として使われている横須賀から汽車に乗り、確か新橋駅あたりの所まで行って、上野駅までの各駅停車に乗りました。有楽町を通り過ぎる時、東京はただの平野で、何もありません。赤いブリキの屋根の小屋があるだけでした。東京をいろんな方向から見ると、廃墟となっているのがわかります。

道はまだ残っていて、たまに米軍のM.P.のジープを見かけました。有楽町付近には、多くの人たちか往来していました。有楽町は歓楽街で人々はストリップショーによく行っていました。 米軍の兵士が回りにいるとかいまだに戦争の雰囲気が残っているとかそんなことが全てショックでした。

アメリカ人は「日本人は誰も戦おうとしない」といっていました。日本を占領するためアメリカ人はここにいるのです。日本人は「ヤンキーが来た」と言ってましたが、それは複雑な気持ちでした。カナダ人は違いました。当時私が日本へ来たとき、私の心の中には、日本人ではあっても戦勝国カナダから来たという気持ちがありました。おそらく、日本へ来た多くの二世がこのように考えいて、優越感を感じていたと思います。

私は東京の上野駅で夜の11時まで汽車を待っていたことを覚えています。空席がなく、遅い時間でしたが、多くの人々が立っていたり、床で眠ったりといろいろでした。仙台を汽車が過ぎたとき、この町も平坦な町でした。 ついに上沼に到着した時、母の心配通り駅には誰もいませんでした。結局義理の兄が姿を現し、家まで歩いて連れて行ってくれました。

私は、ここで本当に歓迎されているのかどうか分かりませんでした。姉達にはあったことのない3人か4人の子供がいて、みな忙しそうでした。 その当時は食べ物なんかの物資が不足していて、今日食べていくことを考えることが何より重要でした。一般的にはたとえ自分の家族だとしても新しく来た人を歓迎するほど気前良くありませんでした。

その3>>

訳注
1. ロシア人のバークィトラム教の人達が売りに来ていました。

*本稿は、10年以上前にトロントの『Nikkei Voice』という新聞に掲載されたものです。熊谷ロイド氏は2004年11月にお亡くなりになっています。

© 1996 Norm Ibuki

カナダ 日系 送還 アメリカ合衆国
執筆者について

オンタリオ州オークビル在住の著者、ノーム・マサジ・イブキ氏は、1990年代初頭より日系カナダ人コミュニティについて、広範囲に及ぶ執筆を続けています。1995年から2004年にかけて、トロントの月刊新聞、「Nikkei Voice」へのコラムを担当し、日本(仙台)での体験談をシリーズで掲載しました。イブキ氏は現在、小学校で教鞭をとる傍ら、さまざまな刊行物への執筆を継続しています。

(2009年12月 更新)

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