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ある被爆者の挑戦 -ポール・エンセキさん-

在米の被爆者について、すでにいろいろなことが書かれてきました。さまざまな本も出版されており、もうほとんど語り尽くされたような感じもするのですが、先日、米国広島・長崎原爆被爆者協会の据石和さんから、ある被爆者の話を聞いた時には「やはり、まだまだ歴史の闇の中で埋もれたままになっている人たちは大勢いる」との感を強くしたものでした。

長崎に投下された原爆。1945年8月9日

その人は、第二次大戦時にマンザナー強制収容所で生まれ、広島で原爆に被爆したポール・エンセキ(煙石)さん(64)です。エンセキさんはこのほど、原爆被爆者手帳の取得を申請しました。建築士としてインドネシアに赴いて十五年近く。そうした生活の中で、「途絶えていた在米の被爆者との関係を回復したかった」と穏やかに話すエンセキさんですが、そこに、歴史に翻弄されてきたエンセキさんの、自己確認の思いもうかがえるような気がしました。すでに強制収容では保障を受け取り、一応のピリオドが打たれたのですが、もう一つ、被爆という一ページに終止符を打つために再度、歴史の轍に立とうとしていると言えるのかもしれません。

エンセキさんは大学を卒業してから、ロサンゼルスの企業に勤めていました。70年代から被爆者協会の活動に協力し、広島からの医師団による在北米被爆者検診ではリストを作成したり、会議の場所の提供するなどしていましたが、それは協会のメンバーとしてボランティア活動に積極的に従事していた母親に賛同してのことでした。

エンセキさんの母親の煙石ジュディ・アヤさんは、カリフォルニア州出身の日系二世です。日米開戦による日系人強制立ち退きでフレスノの仮収容所へ送られる直前に、日系市民協会の仕事で知り合った広島育ちの帰米青年と結婚し、マンザナー収容所で男児を出産。それから2カ月後の1943年9月、一家は突然、第二次交換船で日本に行くリストに入っているとの知らせを受けました。夫の兄が大使館勤務だったことで実現した話でした。ジュディさんは日本へ行きたいとは思っていなかったのですが、夫について子供とともにマンザナーを後にしました。それから東回りの船で日本へ向かい、途中フィリピンに5カ月間とどまった後、最終的に広島に着いたのは44年の春。夫は間もなく招集されて満州に派遣されました。

ソ連軍の捕虜となり一度は戦死と伝えられていた夫は、戦後引き揚げましたが、ジュディさんは、息子を連れて米国に戻ることを決意します。やはり、日本の生活にはついになじめなかったのでした。東京で二年ほど占領軍の事務の仕事をした後、47年に早々とハワイ経由で米国に戻りました。日系人の米国帰還が始まった直後のことで、ホノルルで星条旗を目にした時には涙を流しながら「サンク・ヘブン・アイム・ホーム」と口にしていたそうです。それほど米国人だったということでしょう。その後ロサンゼルスでは、市の自殺予防関係機関に勤務。その一方で、「何か英語を必要とすることでヘルプできれば」と被爆者協会の会員となり、熱心にボランティア活動に従事しました。在米被爆者について米国人に知ってもらうのにも貢献したそうですが、1980年に死去。ポール・エンセキさんは「母の後を継ぎたい」と、協会の活動の手伝いを続けました。

エンセキさんが、インドネシアに派遣されて以来途絶えていた在米の被爆者とまたコンタクトを取りたいと思ったのは、一つには、64歳になって、「他の被爆者はどうしているか」と気になり始めたことが背景にあったようです。ただ、やはり、そうして長年かかわっていた被爆者を取り囲む状況が現在どうなっているか気になったというのが、最も大きな要因でした。

インターネットで調べたのですが、被爆者協会と連絡がとれません。その後、在米の親戚を通じてやっと連絡が取れ、手帳の申請などについての詳細を聞くため昨年12月にインドネシアから訪米、据石さんに会って手続きのことや、申請の条件などについて聞きました。とりあえず、申請の時に必要な情報を書きとめておくことからスタートです。こうして、被爆者手帳取得へ向けての歩みが始まりました。

最大の問題は目撃者の発掘でした。少なくとも二人の目撃者が必要ですが、当時を知る親戚・縁者がほとんど死去したことに加え、被爆当時エンセキさんがわずか2歳だったこと、被爆2年後に早々と帰米したことなどもあり、目撃者を見つけることはきわめて困難とみられました。

それでも、ジュディさんの協会への貢献を忘れていない据石さんは、エンセキさんの被爆者手帳取得に向け、広島の知人や友人、市の関係者に積極的に協力を求めました。その中には、在米被爆者検診団の団長として何度か訪米した伊藤千賀子氏も含まれています。

そうした人々の尽力で、やっと二人の証人が確認できました。あとは、エンセキさんの証言を証人の証言と照らし合わせ、被爆が事実であることの最終確認です。

エンセキさんは現在、特に健康上の問題を抱えているわけではありません。それに、どちらかと言うと「静かに暮らしていたい」というエンセキさんですが、それだけに一層、被爆者として踏み出した新たな一歩の大きさを感じざるをえません。その一歩の重みを知っている据石さんは「手帳をもらったら、ぜひこちらでお祝いしたい」と、早くも胸を膨らませています。

*本稿は『TV Fan』 (2008年3月)からの転載です。 

© 2008 Yukikazu Nagashima

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