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アメリカ料理界で活躍した新一世の記録: カリフォルニア州サウスパサデナ在住の佐藤了さん —その3 日本の故郷とアメリカの橋渡しに貢献

>>その2

フランス料理のシェフとして誰もが羨むほどの輝かしい実績を重ねた佐藤さんの次なる目標は、自分の店を持つことだった。

「昔は、いいホテルやレストランの総料理長まで務めたら自分では店は持たない人が多かった。しかし、私には自信があったんですね。怖いもの知らずでした。 退職を決めた時、皆はどうしてそんないい所を辞めるのか、と言いました。それでも、どんなに小さくても自分の館を持つのがやはり夢でした。夢を持っていて も実現しなければ何の意味もありません」

幸運なことに多くの贔屓客がいた佐藤さんにはすぐにスポンサーがついた。しかも、アルコタワーを辞めてからも、会社側は彼が休職していると顧客に告げ、1年間も退職を隠していたそうだ。料理人冥利に尽きるエピソードである。

店はロサンゼルス市の東にあるアーケディアに構えた。そこは、レストランのメッカのビバリーヒルズでもサンタモニカから遠く離れた地域だ。しかも、 レストランは1にも2にもロケーションと言われるが、佐藤さんが決めた場所は、どんなビジネスをやってもうまくいかずに閉店に追い込まれていた曰く付きの ロケーションだった。

店の名は「シェ・サトー」。ヨーロッパ仕込みの佐藤さんの本格的なフランス料理はすぐに評判を呼んだ。
「成功の秘密?それは多分、アメリカ人の地域にアメリカ人相手の料理を出したからでしょう。日本人にとっては、洋食は誕生日やバレンタインなど特別な日に 食べる物というイメージがいまだにあります。アメリカ人のお客さんの中には、毎日、通ってくれる常連さんもいました」。アメリカ人に受け入れられたこと で、店は繁盛し,銀行の支店長からも「もっと良い場所に出せば、もっとビジネスがうまくいくのに」とまで言われたそうだ。

「私がラッキーだったのは、お客さんに好かれたこともあるでしょう。人との出会いや、人とのコミュニケーションを大事にしないといけません」。シェフとしてどんなに名誉や栄光を手に入れても、ビジネスが成功しても、佐藤さんは感謝の気持ちを忘れることはなかった。

感謝の気持ちは、自分を受け入れてくれたアメリカと、出身地の栃木県黒羽町にも向けられている。東サンゲーブルバレー日系コミュニティーセンターと 黒羽町の交換留学制度の誕生にも関与した。発端は15年ほど前、渡辺美智雄副首相が渡米した時に、栃木出身の渡辺氏を迎え入れるために、それまでなかった 県人会を発足させたこと。さらに黒羽町で「人づくり文化講演会」にアメリカで成功したシェフとして講演を行った。

「田舎から出た人でもアメリカンドリームが達成できる」と佐藤さんは、故郷の人々に向けて熱く語ったのだ。

やがて黒羽町より14人の中学生を10日間預かってほしいと依頼された。佐藤さんはレストランのテーブルに「ホストファミリー募集」のフライヤーを置いた。すると、あっという間に確保できたと言う。

「中にはロールスロイスを2台も所有しているような人もいました。でも、子供たちにはいいところばかり見ていてはダメだと話しました。中学3年生と言えば,人間として成長する時期です。一生懸命に勉強してまた来たいという子もいました」

敬老ホームでも長年、ホリデー料理をボランティアで振る舞った。豆腐フェスティバルにも出店、売り上げを福祉団体であるリトル東京サービスセンター に寄付してきた。さらに、東サンゲーブルバレー日系コミュニティーセンターの社交ホールの改築のために、歌手である芳枝夫人がチャリティーコンサートを行 い、純利益2万ドルを寄付している。

2004年、24年間続けた店を閉める時、引退パーティーには500人もの人々が参集した。アーケディア市は「シェ・サトーの日」を設けた。引退してからも、栃木県人会の活動には熱心だ。佐藤さんが作る料理を楽しみに、県人会員の輪ができる。

最後に「アメリカは佐藤さんに何をくれたか」を聞いた。「アメリカは実力があれば認めてくれる場所。成功とはお金ではありません。自分で定めた目標を達成したという満足感が成功です」。佐藤さんの穏やかな笑顔が、そのことを何よりも雄弁に物語っている。

(終)

©2009 Keiko Fukuda

chef Chez Sato culinary food restaurant Ryo Sato