ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

culture

ja

ピアニストの「笑い」 -平田真希子さん-

仕事柄、これまでに多くの方々と話をさせていただく機会に恵まれてきました。文字通り、老若男女、さまざまな職業や経歴、さまざまな人種や国籍、そして、さまざまな性格と、実に多様です。その中で、今回話をすることができたピアニストの平田真希子さんほど話していて楽しい人は、そう多くはいませんでした。とにかく、よく笑うのです。それもとって付けた笑いではなく、ごく自然に、しかも何の屈託もない笑い。私も話をしながら、何度も笑いを誘われました。米国に生きる外国人として、ピアノに自分を託し続けて20年。現在はコルバーン音楽学校で、学費はもち論、生活費の心配もなく音楽の勉強を続けている日々ですが、聞くと、意識して笑うように努めてきたと言います。笑うことで、近視眼的にならず、一定の距離で物事を見ることができるといいます。

写真提供: 岡田信行

鎌倉近郊生まれ。父親の仕事の関係で、一歳で香港に。そこでピアノを始め、6歳半で日本に帰国。13歳の時、父親の赴任に伴い渡米し、その後、音楽名門校であるジュリアード音学院のプレカレッジに合格、本格的にピアニストとしての道を歩み始めました。16歳の時には、父親が日本の本社に戻ることになったのですが、自身は一人米国に残って音楽の勉強を続け、マンハッタン音楽大学、ニューヨーク大学ピアノ演奏修士課程を経て、2006年にコルバーンに入学、長年住んだニューヨークからロサンゼルスに生活の拠点を移しました。ニューヨークにいた時には七年間フリーランスのピアニストとして、演奏旅行で米国各地や海外を訪れました。

平田さんから話を聞いたのは、ロサンゼルス・ダウンタウンにあるコルバーン音楽学校の練習室。ピアノが一台置いてあり、隣の練習室からはチェロの音がうっすらと漏れてきます。

平田さんは実に滑らかに、どちらかと言うと早口に、アメリカで生きる日本人ピアニストとしての苦労などについて話してくれました。「ピアノがなければ、これほど物事を突き詰めて考える機会や場所がなかった」という平田さん。確かに、その話す内容からは、深い思索のあとがうかがわれます。そもそも、ピアニストでなければ物書きか役者を目指したというほどです。ホームページには「18歳の平田真希子の独立宣言」や「私、過去と現在」をはじめ、突き詰めた心情が赤裸々に綴られている文章も多々あります。そうした文章を読みながら、私は胸を締め付けられるような思いにかられることもありました。

今回そうした、どちらかと言うと深刻な話をしながら、それでも、平田さんの笑いは途切れることがなかったのですが、その笑いがピタッと止まる瞬間がありました。それは、米国で生きる一日本人ピアニストとしてのアイデンティティーについての話をしていた時です。私は、香港、日本、そして米国と、これまで三カ国で生きる中で、自分のアイデンティティーを保つために、音楽がどのような役割を果たしてきたか、聞いてみました。

写真提供: 岡田信行

平田さんは「国籍という点では、日本人が西洋音楽をしているのだから、ややこしいですよね。でも、個人のアイデンティティーという点では、私がピアニストであるということはもう『宗教』と同じくらい深い意味があります」と言って、アイデンティティーの問題はないことを強調しました。しかし、そのあとすぐ続けて「確かに若い時には、アイデンティティーの揺れといったものがあったと思うんですけれど」と言い淀み、「今だって(ピアノを)辞めるという選択肢はいつもあるわけですよ。明日辞めたっていいんですよ」。それから、いつもの笑い。一際高い笑いでした。

私は「ウソでしょう」と返すしかありませんでした。すると「いや、本当ですよ」。そして、瞬時をおかず「でも…」。ここで言葉が途切れます。笑いが途切れます。その後、8秒間の沈黙。

その間、平田さんの心の中に何が映っていたのか。何が心をよぎっていたのか。

日本から離れることばかり考えていた中学時代。あらゆる常識に息苦しさを覚え、本当の自分になりたいともがいていた18歳の時。初のヨーロッパ演奏で「失敗」し、行き詰まったと感じたこと。その後踏んできた数々のコンサートの舞台。そして、ボリビアの子供たちやポーランドの子供たちをはじめとする、演奏旅行で出会った世界中の人々の顔。この8秒間、平田さんの心の中では、ピアニストとして生きてきたそれまでの人生が走馬灯のように映っていたのでしょうか。あるいは、人生の一齣が突然、胸に迫ってきたのでしょうか。8秒間の途中に一回、話し始めようとするかのように、小さく短く息を吸って、それから、最初の「でも」より一オクターブ低く、しかもフォルテからメゾピアノとなった「でも」でまた話し始めました。

「でも、私が私になるための過程というか、それは、私だけではできなかったもので、つまり、いろいろな人が、私を私にしてくれたんです。そういう人たちを裏切らないために、ピアノを続けるんです」

深く悩み、いろいろなことに挑み続け、今でも人前で弾くことを恐れながらも、それでもなお、ピアノに自分を託して、人々との「共感」を求めて生きている一人の日本人がここにいる。私はふと、笑いがこの人の人生で果たしてきた役割を理解したような気がしました。同時に、その生き方によって、何故か私自身も勇気づけられているのを感じたのです。この人に、心から声援を送りたいと思いました。

写真提供: 岡田信行

平田さんのホームページ: http://makikony.cool.ne.jp

*本稿は『TV Fan』 (Dec. 2009, No.416)からの転載です。

© 2009 Yukikazu Nagashima

music musician pianist Piano TV Fan