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マンザナーへ、そしてマンザナーから

第3回 「運命の扉」が開いた瞬間

生まれて初めてマンザナーを訪れてから約1年が経ちました。私はオレンジ・コースト大学を卒業後、カリフォルニア州フラトン市にあるにあるカリフォルニア州立大学に転学し、本格的に日系史の勉強を始めることになりました。当時、フラトンの大学では、オーラル・ヒストリーを通じた日系アメリカ人の歴史の研究で知られるアート・ハンセン先生が教鞭をとっており、先生のもとで勉強ができる機会を大切にしたいと私は考えていました。

フラトンの大学に通いはじめて数ヵ月後、学部の先生たちから、マンザナーの資料館で実習生を募集している、ということを私は知らされました。日系人の歴史を理解するにあたり、とても大切な経験になると思い、生まれて初めて英語で履歴書を用意し、私はすぐに応募しました。ハンセン先生をはじめとする学部の先生たちや、大学の国際教育交流事務所の職員のみなさんの手助けもあり、2005年の12月から2006年の1月にかけての4週間、私はマンザナーで実習生として働くことが決まりました。

2005年の12月19日の早朝、私はマンザナーに向けて車を走らせました。実は、このときがすでに3回目の訪問で、一分でも早く着きたい、そして色々なことを学びたい、という気持ちで私はハンドルを握っていました。そのせいか、普段は4時間かかるところが、3時間40分ほどでマンザナーに着きました。到着時間は朝の9時でした。私は資料館の扉を勢い良く開けました。ベートーベン風に言うならば、まさに「運命の扉」が大きく開いた瞬間でした。

資料館の建物に入るなり、「おはよう、あなたが郷さんですか」、と声をかけてくれた人がいました。国立公園局の職員であるキャリー・アンドレセンさんで、私のボス(上司)になる人でした。はじめに、彼女は資料館で働いている職員の皆様をひとりずつ紹介してくれたあと、これから4週間のあいだに行うことを私に説明してくれました。マンザナーでの私の主な仕事は、資料館に保管されている日本語で書かれた手紙の整理と翻訳、オーラル・ヒストリーの反訳作業、実地での研修、そして資料館内での接客を行うことでした。

仕事内容を確認したあと、彼女は実習生が宿泊する家に案内してくれました。そこは、マンザナーから車で10分ほど離れたインディペンデンスの町のなかにありました。白い平屋建ての家で、内部はとても綺麗でした。彼女が、私のために掃除をしてくださったのです。私はこれからの4週間を、そこで過ごすことになったのです。

私を宿泊先に案内してくれた後、彼女は隣にあるロン・パインの町に案内し、マンザナーが位置するカリフォルニア州のシエラ・ネヴァダ山脈、オーウエンス谷、そしてデス・ヴァレー(死の谷)の地理について詳しく説明してくれました。マンザナーでの実習の第一歩は、周辺の地域について理解することだったのです。それは、まるで学校で地理の授業を受けているような気分でした。

マンザナーはカリフォルニア州インヨー郡にあるロン・パインとインディペンデンスの間にあります。この2つの町は、あまり大きな地域ではありません。言葉は悪いのですが、「ど田舎」と表現するとわかりやすいでしょう。この地域に住んでいる人々は、買い物をするとき、映画を観るとき、そして病気になったときは50マイルほど北に離れたビショップ市に行くのです。ロン・パインには、美味しいピザのレストランをはじめとする数軒の飲食店、宿泊施設、ガソリンスタンドなどがありますが、インディペンデンスには、インヨー郡の事務所、裁判所、東カリフォルニア博物館、そして墓地と郵便局くらいしかありません。かつては、それなりに栄えた街だったようですが、今ではとても静かな街になってしまいました。ですから、マンザナーを訪問する際には、ガソリンスタンドや飲食店のある場所を確認したうえで、足を運ぶことをお勧めします。

実際、このような地域で生活したことのない私は、たった4週間という短い期間にもかかわらず、この不便さに大変苦労させられました。私のために用意された家はとても可愛いものでしたが、洗濯機が無いうえに、電話回線やテレビすらなかったのです。そのため、週末になると、洗濯や電子メールの確認のためにオレンジ郡まで戻り、ついでにそこで食料品の買出しをしてから、インディペンデンスに戻っていました。つまり、実習期間中は、都会と田舎を行ったり来たりするという生活をしていたのです。

さらに、私がマンザナーにいた時期は、気温が最も下がる時期でもありました。マンザナー周辺は砂漠気候のため、朝と昼、そして夏と冬の気温の差がとても激しいのです。朝は早めに起きて、出勤する30分前に車のエンジンをつけ、ぬるま湯で車についた霜や雪を払ったことは今でも鮮明に覚えています。そのような場所に、1万人を超える日系人が、自由を奪われて、数年間に渡って収容されたのです。それは、とてもいたたまれないことです。

マンザナーでの実習は、私自身に、「身(からだ)をもって」、日系史を学ぶ機会をもたらしてくれました。さらに、マンザナーで生活をすることによって、私は「日系人の視点」から日系史を理解することができるようになりました。日本でも、日系史を学習、研究する人々はいますが、その多くは、日本人の視点から、文献に頼って日系史を理解しようとします。日系人を理解すること、そして日系史を理解するためには、日系人の視点で日系人について考えることがとても重要です。私は、マンザナーでの実習を通して、日系人を理解する為の「重要なヒント」を得たのです。

© 2009 Takamichi Go

internship manzanar

このシリーズについて

2002年にアメリカへ留学し、『さらばマンザナール (原 題:Farewell to Manzanar )』との出会いで、日系史に目覚めた郷崇倫(ごう・たかみち)氏による、コラムシリーズ。自身の体験談を元に、日系史について語ります。

(* Signature image from Wikipedia.com by Daniel Mayer. )