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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2009/11/19/tanabata/

ロサンゼルス「七夕祭り」 その2: さらに多くの「絆」を -来年へ筒井さんが抱負-

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>>その1

今年の第69回二世週日本祭の行事の一環として催された第1回ロサンゼルス「七夕祭り」では、多くの人々の参加と協力で、当初の計画を上回る計250個の飾りを作り上げ、飾り付けることができた。小東京に出現したその見事な景観が、いまだに脳裏に焼き付いている人は少なくないだろう。

それと同時に、飾りの制作などを通じて築き上げられたさまざまな「絆」も、まだ実感を伴う「成果」として残っている。その実感を温めていって、来年の七夕祭りで、さらに多くの「絆」を築くことができるかどうか。南加県人会協議会の元幹事で、三重県人会の筒井完一郎さん(八〇)は、今年の七夕祭りを通じて家族の「絆」を深めた一人。アルツハイマー病の妻、和子さんと二人の名前を入れた飾りも作った。他の県人会の飾りの制作も手伝った筒井さんは「感動、また感動の七夕祭りでした」と振り返りながら、さらに多くの人が参加できる祭りへと、早くも来年に向けて、新たな構想を心に描き始めている。

83個が県人会

筒井さんが七夕祭りに積極的に協力するようになったきっかけは、どちらかと言うと、きわめて個人的なことだった。

七夕祭りは南加県人会協議会と小東京防犯協会、そして二世週日本祭実行員会の3団体の共催で、飾りの制作にはこれら3団体が日系諸団体、日本語学校、日系企業などに広く協力を呼び掛けたが、県人会協議会としては、日本文化の理解と普及が一つの大きな軸。協議会自体で合計83個を作り、会長の宮崎マックさんの熱意が実った形だ。

しかし、筒井さんは「米澤さんの奥さん、純子さんの『なんとしても主人の夢を実現させてやりたい』という言葉、その気持ちに感動した。最初はそれだけでした。それで、友人として一緒にやらしてもらいました」と振り返る。

それともう一つ、リトル東京サービスセンターで活動資金集めの仕事をしている日系四世、ノエル・イトウさんの言葉も心に引っ掛かっていた。日本語の月刊誌「TVファン」(6月号)に掲載された日系コミュニティーについての意見を問われたイトウさんの回答だった。「日系アメリカ人と、アメリカに住む日本から移り住んだ人たちの間には、充分なまとまりがないように思います。日本語を話す人たちと、英語を話す人たちのあいだが分断されているように見受けます」

この七夕祭りで両者の溝を少しでも埋めることができるかもしれない―それが筒井さんが七夕祭りに関わったもう一つの理由だった。

息子夫婦の協力

筒井さんは「中央自動車工業」の現地法人の社長職を引退した後、1987年にラグナニゲルに住む息子の幹雄さん夫妻の家から5分ほどのところに移転し、日系社会のさまざまな活動に貢献してきた。今度は七夕祭りへの協力である。

飾り一つに150個の花が必要であり、作るのにはかなりの手間と時間がかかる。それに「だれが作り方を教えるんだ」ということになり、筒井さんも教えるためにワークショップに参加するなどして作り方を学び、その後、あちこちの団体に出向いて作り方の指導に当たった。同じように指導に当たったのは計6、7人。筒井さんは、長崎県人会、オレンジ郡日系協会、倫理研究所、SGIと「私もよう行きましたよ」。いつも奥さんの和子さんと一緒だった。

和子さんがアルツハイマー病を患っていることが分かったのは7年ほど前のこと。そのことが昨年ロサンゼルスの日系紙、羅府新報に掲載されて、大きな反響を呼んだ。同じ質問を繰り返す、食べ終わったばかりなのにまた食事を作る、そんな和子さんに最初はいらいらしていた筒井さんだったが、「本人かて好き好んで同じ質問をしているわけやない。残された能力を使って、懸命に『今』を生きとるんです」と了解してから、次第に和子さんに優しくなれた。それに応えるように、和子さんもさらに優しく、穏やかになったという。

和子さんの発病以来、息子の幹雄さんは毎朝出勤時に筒井さんの家に寄り、和子さんの様子を聞いたりしていたが、七夕祭りの飾りを作ることになってから、そうした家族関係に大きな変化が生まれた。

全米日系人博物館で開かれたワークショップで、七夕飾りの作り方を学ぶ筒井さんと奥さんの和子さん

一緒に飾りを作る中で

筒井さんは「悲しいかな、私たちは英語が話せない、息子たちは日本語が話せない。どちらかと言うと、寂しい関係ですね。今年18歳になる孫も、小さいころはこの人(和子さん)が育てたんですが、学校に入るともう寄ってこないし…」。

ところが、七夕飾りを作ることになって、がぜん幹雄さんの妻アーリンが「私がヘルプします」と、協力してくれるようになった。そして、花を一緒に作るという作業の中で、言葉が十分でなくともコミュニケーションが生まれていく。

「アーリンは沖縄の三世で、以前学校の教師をしていたんです。そんな関係で、こういうものを作る材料や道具の使い方を良く知っていて、私が教えたら、すぐ覚えましたよ」

飾りを作るということで来やすくなったということもある。来れば「家内の様子はどうかと聞いてくれたり、買い物に行くけど、何か用はないかと聞いてくれたり。次第に『絆』と呼べるものが作られていきました」。

筒井さんの家で作った飾りは結局二つ。筒井家のものと、人手がなくて作るのは難しいとされていた、長野県人会の飾りを世話した。

たまたま長野県人会の野崎住吉会長の奥さんで、亡くなった美恵子さんのことを思い出したのだった。美恵子さんは県人会協議会の機関誌「幾山河」の編集を1987年から約8年間、担当してくださった。

筒井さんが長野県人会の七夕飾りの制作を引き受けたのは「長野県の飾りを作らなかったら、奥さんが天国で『幾山河』の編集をしたのに、協議会は水臭い、と言うんじゃないかと思って作りました」。

別の意味付け

そして、家で家族総出で作りながら「奥さん、ありがとうね。『幾山河』を続けてくれたから、今でもこうして県人会協議会は続いてますよ」という気持ちになった時だった。ふと「こういう慰霊のために、飾りを作るというのはどうだろうか」と思ったのだ。

「今年の三月、佐賀県人会の中尾節次さんが亡くなったんですが、中尾さんは私と同じ昭和4年生まれで、他に、静岡県人会の柴邦雄さん、熊本県人会の小島敏雄さんも同じ年生まれで、『昭和4年組』として仲良くしていたんです。それで、この昭和4年組で中尾さんをしのんで一つ作る。七夕の牽牛星と織姫星との再会と同じように、盂蘭盆の再会の喜びです」

そんなことを考えながら続けた七夕飾りの制作作業。もち論、妻の和子さんも手伝った。なかなか若い人のようにはいかなかったが、「本人は喜んで作ってました。手先の訓練にもなりました」と筒井さんは満足気だ。

筒井家の飾りの短冊の文句は「生きているいることを感謝します。これからも仲良く生きていきます」。和子さんが墨で書いた。「筒井完一郎、和子」という署名も、和子さんの筆だった。その筒井家の飾りは今、ラグニゲルの自宅にある。築き上げた家族の「絆」の象徴として、静かに筒井さん夫妻を見守っている。

© 2009 Yukikazu Nagashima

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執筆者について

千葉市生まれ。早稲田大学卒。1979年渡米。加州毎日新聞を経て84年に羅府新報社入社、日本語編集部に勤務し、91年から日本語部編集長。2007年8月、同社退職。同年9月、在ロサンゼルス日本国総領事表彰受賞。米国に住む日本人・日系人を紹介する「点描・日系人現代史」を「TVファン」に連載した。現在リトル東京を紹介する英語のタウン誌「J-Town Guide Little Tokyo」の編集担当。

(2014年6月 更新)

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