ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

マンザナーへ、そしてマンザナーから

第2回 はじめてのマンザナー訪問

2004年の8月9日。この日、私は生まれて初めてマンザナーを訪れました。

朝の4時頃にオレンジ郡を出発し、数時間車を運転し、朝の9時少し前にマンザナーにたどり着きました。フリーウェイ14号線を運転しているときに見た、目が痛くなるような輝かしい朝日や、モハビ砂漠のなかにまるで置き去りにされたかのように保存されている使われなくなった飛行機の奇妙な光景は、今でもよく覚えています。

マンザナーに到着した時、私は目の疲れを少し感じていました。朝日がとても強かったのです。眼のなかにある視神経が焼かれてしまうような気分でした。そして、車から降りたとき、私を待ちかまえていたかのように、暑さが私の体全体を覆いました。サウナの中で我慢を強いられているような気分でした。周りにあるのは砂と山と道路だけ。その他には、何もありません。そんなところにマンザナーはつくられたのです。

私は、自分の視界を大きく広げながら、マンザナーの跡地を駐車場から資料館に向かって歩きはじめました。「よくもこんなところに罪の無い人々を閉じこめたな」、という怒りの感情が私の心の底から少しずつこみ上げてきました。日系人の歴史に、こんなにも残酷な時期があったということを、私は身をもって感じていました。それと同時に、戦時中の日本の指導者たちにとって、日系人たちはどうでもよい存在だったのかもしれないと考えはじめ、彼らに対する怒りも心の底からたくさんわき出てきました。

朝の9時になり、資料館の扉が開きました。私は資料館にある展示物のひとつひとつをくまなく、目を皿のようにして見て回りました。

まず初めに目にしたのは、資料館の入り口付近にある排斥に関する新聞記事や写真でした。「日本人お断り」、「日本人は国に帰れ」などという看板や、「日本人を排斥すべき」という主旨の新聞記事でした。それらは、生まれて初めて見た人種差別の証であり、私は大きな衝撃を受けました。また、悲しい気持ちと同時に、日本でこのようなことを学ぶ機会を持てなかったことに対する一種の悔しさを感じました。

さらに奥へすすみ、私は今まで学ぶことのなかったいろいろな歴史を知ることができました。特に、資料館の奥にあった一枚の写真を見たときは、驚きと悲しみ、そして怒りといったいろいろな感情で私の心はいっぱいになりました。その写真とは、星がひとつだけついた旗のかかったバラックの扉でした。バラックに収容された家族からアメリカ軍に従軍している若者がいることを示す印なのです。さらに、その展示の隣には、ひとりの青年の写真と、その青年の書いた手紙がありました。彼の名前はサダオ・ムネモリでした。彼は20代半ばにして自らの命をアメリカのために、そして多くの日系人のために犠牲にした人です。

アメリカの政府は、収容所を作ることで、10万人以上の日系人の自由と正義を奪いました。それにもかかわらず、アメリカ政府のために命を投げだした日系人が多くいたのです。日本人の視点で表現すると、「お国の為に」という感情が日系人の間にもあったのです。国家の為に命を犠牲にすることの重大さを、このとき初めて私は理解したのです。

その後、私は車でバラックや庭園などの各施設の跡や墓地を見学しました。戦争が終わって半世紀以上が経った今、人々が足を踏み入れることができ、日系人に対する差別や偏見が存在したことを生々しく感じとることができる場所はとても限られてます。実際に、その場に足を踏み入れることによって、アメリカという国にとって、マンザナーは隠したい過去のひとつであったことに私は気がつきました。

再び資料館に戻った後、私は国立公園局が編集した20分ほどの映像作品(Remembering Manzanar)を鑑賞しました。それは、マンザナーにいた数名の日系人の語りを交えながら、マンザナーがどのような場所であったかを手短に解説したものでした。あらためて、マンザナーが日系人にとって重要な歴史のひとコマであったこと、そして人種差別の悲惨さと平和のかけがえなさを私は思い知ったのです。

資料館の全てを見終わったころ、時間はちょうど正午をまわっていました。3時間以上かけて、私はマンザナーについて学べるだけ学びました。資料館の建物を出るとき、入り口にいた職員の方が、「あなたが今日、一番長い間ここにいたわよ」、と言ったことを私は今でもよく覚えています。私は、たくさんのことを短い間に学んだという一種の達成感を感じました。そして、「また訪れよう!」と私は心に強く誓いました。

マンザナーへの訪問を機に、私の人生は大きく変わっていきました。「日系人の歴史についてもっと学ぼう」、という意欲がわき出てきたのです。その1年半後、私はマンザナーの資料館で日本人として初めて実習生として働き、そして数年後には、JAリビングレガシーの活動に関わるようになったのです。

© 2009 Takamichi Go

internship manzanar

このシリーズについて

2002年にアメリカへ留学し、『さらばマンザナール (原 題:Farewell to Manzanar )』との出会いで、日系史に目覚めた郷崇倫(ごう・たかみち)氏による、コラムシリーズ。自身の体験談を元に、日系史について語ります。

(* Signature image from Wikipedia.com by Daniel Mayer. )