二世ウィークの一環で毎年開催されるのが、華道教授会による生け花の展示会である。教授会は池坊、小原、草月の流派を超えて、それぞれの教授が参加している。会場の日米文化会館で、小原流の林田美那子さんに話を伺った。
現在、小原流のロサンゼルス支部会長を務めている林田さんが生け花に出会ったのは、1983年のことだった。
「ジュエリーのデザインを仕事にしていた私は、何らかの方法で自分の感性を磨きたいと望んでいました。小原流の知識は何もなかったのですが、友人に河村先生を紹介され、いい先生に巡り合えたことで25年、続けています」
小原流の魅力を聞くと「幅がとても広いこと。池坊から出ていることもあり、伝統的な生け花から、最後はスカルプチャーを施す手法まで含まれます。その分、芸術として挑戦できる幅も広いため、やりがいが大きいのです」
ジュエリーデザイナーだった林田さん、作品に取り組む前にデッサンを描くのかと思いきや、材料を前にして頭の中で構想を練るのだとか。
「まだまだ、満足できる花を生けられるところまではいっていません。それでも、楽しんで生け花を続けたいと思っています。感性を磨くことを目的に始 めた生け花ですが、それによって私自身の物の見方も変わりました。芸術作品を鑑賞する時、その作品が何を訴えようとしているのかを常に読み取ろうとするよ うになりました。もちろん、私自身の作品としての生け花も、見る人の心を和ませたり、何かを訴えかけたりするような、心を動かすものでありたいと思ってい ます」
林田さんは今、会長として、40周年を迎える小原流ロサンゼルス支部の記念イベントの準備に追われている。10月4日には花展が、5日には日米劇場でフローラルパフォーマンスが開催される。
自然を捉える鋭い目
同じ会場で出会ったのが、小原流を教えて今年で50年を迎える正原正風さん。日本で生け花を習っていた正原さんは、帰米二世の男性との結婚を機に家元教授の資格を持って1957年に渡米し、翌年から個人教授を開始した。
「日系二世の在郷軍人の奥様たちを相手に、個人のお宅に10名くらい集まっていただいて指導していました。アメリカでの生け花の最初のお弟子さんは 二世の方々だったんです。その後、24年ほど前からロサンゼルス・シティ・カレッジのコミュニティーサービスの授業で生け花を教え始めて、今も続いていま す。生徒さんは、アメリカ人です。日系の若者もセメスターによっては習いに来ることもありますが、長く熱心に続けていらっしゃるのはアメリカ人ですね。中 には20年も通い続けている生徒さんもいます。小原流は自然の景色を尊重します。ですから自然を見る目が鋭い方は長続きします」
50年前とは隔世の感
正原さんは、「生け花には長年続けても終わりはない」ということを、アメリカ人に理解してもらうことは難しいと打ち明けた。確かに、西洋のフラワー デザインではコースを修了すると、ある程度スキルが身に付いたように感じられるかもしれない。しかし、生け花の場合、何十年も勉強し続けることは決して珍 しいことではない。それだけ奥が深い証拠でもある。
「教える私自身も、生徒とのクラスの中でさまざまな経験をシェアしています。私自身も学んでいるのです。生け花に、これで終わり、ということは決し てありません。アメリカ人の生徒さんに説明する時には、日本語では華道、つまりway of flowerと言い、その道はずっと続いているのです、と話します」
今はLACC以外に、ビバリーヒルズ高校のアダルトクラスでも教えている。教授歴50年、数え切れないほどの人々に生け花を指南してきた正原さんだが、始めた当初と今とでは隔世の感があると振り返る。
「50年前は、枝を多く用いる小原の花材として、決定的に種類が足りませんでした。日本的な季節の枝を確保するために、庭に梅や桃など苗木をできるだけ多くの種類、植えて育てました。今では庭がジャングルになってしまいました(笑)」
現在は、生け花のアメリカ社会での浸透により、花市場でもほとんどの種類が手に入るそうだ。パイオニアは後に続く人たちの土台作りのために、苦労をするものだ。生け花も例外ではなかったということだろう。
最後に正原さんに「生け花とは貴女にとって何ですか?」という問いを向けると「生け花は命です。私の人生です」という答えが返ってきた。
林田美那子プロフィール:1971年渡米。83年に小原流に入門。宝飾デザイナーの仕事は引退し、現在では小原流ロサンゼルス支部の会長職として奔走している。ハシエンダハイツ在住。
正原正風プロフィール:1957年、帰米二世の夫と渡米し、58年より在郷軍人の妻たちに小原流を教え始める。ロサンゼルス・シティー・カレッジ、ビバリーヒルズ高校のアダルトクラスでも長年指導。