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ブラジルの日本人街

第15回 (最終回) — 日本人街の現在と明日

サンパウロに行けば、「日本」に会える。サンパウロから約1000キロも離れた内陸ブラジリアの若者たちには、そんな共通認識がある。その「サンパウロ」は、ばくぜんと東洋街を指しているようだ。

今年2008年5月22、23日に行われた日本人カブキ・ロック・アーチスト雅(Miyabi)のコンサートには、筆者の教え子たちもブラジリアか ら駆けつけた。会場は東洋街エリアの中心の一つ、日本文化協会の大講堂だったが、チケットは1200席全席が二週間前に完売したという。文化協会前では、 コンサートの三日前から席取りのための長い列が見られたほどの大人気だった。地方から東洋街にやってきた雅のファンたちは、コンサートに熱狂した後の興奮 を持続させながら、東洋街で日本酒を試し、スシやサシミを味わい、「日本情緒」にひたったそうだ。彼らにとって、東洋街は想像の「日本」を具現するテーマ パークである。

コンデや東洋街などリベルダーデ地区の日本人街は、長らくブラジルの日本人・日系人が郷愁にひたる場であった。戦前は農村の日系青年がコンデ街のポ ロン(半地下式部屋)でうどんを食べて故郷を思い、また戦後はシネ・ニテロイで月遅れの邦画を観てガルヴォン・ブエノ通りを闊歩し銀ブラ気分にひたる1。言ってみれば、日本人の、日本人による、日本人のための場所であった。それが今、日系コミュニティのソトへ向かった、あるいはソトから入ってきた「日本文化」プレゼンスが、非日系ブラジル人の間にも拡大し、若者たちのファッションにまで広がりつつある。

また同時に、東洋街はその名の通り、華人系・韓国系のプレゼンス拡大によって、日本人街からオリエンタル・タウンへ変容しつつある。そんな東洋街の 現在を象徴するのが、2007年の総選挙でブラジル政界に躍り出たウイリアム・ウーだ。ウーは、サンパウロ市議から一足飛びに連邦下院議員に当選した若手 のホープであり、東洋街の日系エスニック・イベントには欠かせない顔となっている。日系コミュニティと密接な関わりを持つが、父が台湾系(ただし、元日本 帝国陸軍軍人)で母が日台混血、妻が韓国系二世と複雑な出自・背景を有している。ブラジル人としてのナショナル・アイデンティティだけでなく、日中韓にま たがるアジア系エスニック・アイデンティティという多重的な境界性を持つ政治家である。むしろ、日系コミュニティと深く関わりながら、多くのエスニック集 団にまたがったマルチ・エスニシティが彼の強みであり、東洋街の現在と明日を象徴していると言える。

ただ、実際に東洋街を歩いてみると、日本色(あるいは東洋色)ばかりが目立つわけではない。買い物客はもちろんだが、朝から晩まで多くの非日系の学生風の 若者たちを眼にする。以前明らかにしたように、かつてこのエリアは、大正小学校や裁縫女学校、それらの寄宿舎が集中し、日系の学生街という性格を有してい た。しかし近年、多くの私立大学・予備校が進出し、エリアの新しい顔として、「大学・予備校の街」というイメージが浮かび上がっている。現在、リベルダー デ地区には、大学6校、予備校3校があり、このエリアに新しい活気を生み出している。サンパウロ市の大動脈の一つリベルダーデ大通りに面して、地下鉄駅で あるリベルダーデ駅とサンジョアキン駅の間には、夜間も若者たちの行き来が途切れず、BARは人であふれ、道路はしばしば渋滞を起こしている。またこの他 に、台頭いちじるしい華人系の幼稚園・保育所も増えている。

こうした新しい傾向が見られる一方、日系人プレゼンスの後退やイベント・スペース上の限界、交通渋滞、治安の問題が持ち上がっており、日系コミュニ ティ側もそれらの解決策を模索している。ACAL(リベルダーデ文化福祉協会)の池崎博文会長は、昨年2007年2月、6期目の会長就任記者会見で、「ボ ウレヴァール・リベルダーデ・プロジェクト」構想を発表した。シネ・ニテロイ跡地に地上15階、総面積5万平方メートルのポルタウ・ダ・リベルダーデとい うビルを建設、オフィスやショッピングモール、映画館を備えた大型の多目的施設を建設するというものだ(ニッケイ新聞WEB版, 2007/02/17)。これが実現するとシネ・ニテロイの再来となり、垂直に伸びた新しい日本人街が誕生することになる。ただ、こうした東洋街の再活性 化計画は真新しいものではなく、シネ・ニテロイ跡地に大型ビルを建設するアイディアは、故水本毅会長時代からすでにあった。

東洋街を行き来する人の波の中にいると、その繁栄は疑いようもないが、街並はどうしてもごてごてと垢抜けないイメージがつきまとう。店舗ファサード の日本的(=東洋的?)デコレーションは街の顔の一つだが、デザインに統一性がなく、観光・商業地区として洗練されているとは言いがたい。事実、2007 年には、市美化条例施行で、このエリアの多くの店舗が看板やデコレーションを撤去しなければならなくなり、さんざん物議をかもした。その一方で、同年10 月には「リベルダーデ再活性化プロジェクト」が浮上した。ブラジル日本移民百周年を記念して、リベルダーデ広場にハイテク技術を駆使し、江戸時代の日本を 再現するというもので、雑誌に掲載されたイラストを見てみると、大仏や日本風建築、東洋風ファサードなど、エキゾチックなシンボルを組み合わせた構成に なっている(Made in Japan No.126, 2007/3月, pp.44-51)。サンパウロ市によれば、プロジェクトの概算は約4500万レアルと計上されているが、市からの予算はなく、一般企業からの出資を募る計画であるという(ニッケイ新聞WEB版, 2007/10/31)。

このプロジェクトを反映して、2008年6月には、リベルダーデ広場に面したブラデスコ銀行支店が、いち早く改装工事を行ない、日本の城郭風ファ サードが出現した。しかし予算不足のためか、すずらん灯の電灯がつけ替えられ、夜の街が明るくなった他は、今のところ、街路や店舗の改装の様子は見られない。

今から15年ほど前の90年代半ばには、世代交代や出稼ぎによって日系社会が空洞化し、解体に向かうことが危惧されたものだ2。 しかしながら、新世代の台頭によって、日本語や日系コミュニティを媒介としない「日本文化」の表象が見られるようになり、今や東洋街だけでなく、ブラジル の日本人街は日系文化(=ブラジル日系社会で再解釈・再創された日本文化)を具現化・可視化する場となっている。例えば、週末の東洋街は、コスプレやヴィ ジュアル系を意識した若者たちが集まり、情報を交換するJ-POP発信基地としての顔も兼ね備えている。

このように、東洋街は、日系コミュニティと深く関わりながら、華人や韓国人、非アジア系ブラジル人など、多くの集団にまたがったマルチ・エスニックな、そしてさまざまな文化が具現化した顔をあわせ持つ多元的な空間として発展していく可能性を秘めている。

今年2008年は、ブラジル日本移民百周年である。1908年の笠戸丸移民のうち大多数は内陸の農場に向ったが、十数人はコンデ界隈にとどまり(半 田, 1970, pp.168-169)、サンパウロ日系住民の先駆けとなった。この最初の日本人集住は、戦前の日本人街「コンデ界隈」の形成へと続いていく。この意味 で、ブラジル日本移民百周年は、ブラジルの日本人街の百周年でもあると言える。

百年前、コンデの坂下からゆっくりと坂をのぼりはじめた日本人は、戦後リベルダーデ広場という坂の上に達した。それだけでなく、坂の上を越えて拡大 し、今や日系コミュニティの裾野はブラジルのあらゆる分野に広がっている。次の一世紀、ブラジルの日本人街は、つぎつぎと新しい要素が付加されていくダイ ナミズムの中で、さらに変容と再創をくりかえしていくにちがいない。コンデの坂下からはじまった筆者の旅も、まだまだ終わりそうにない。

(終)

注釈:
1.実際にガルヴォン・ブエノ通り界隈は、「ガルボン銀座」とも呼ばれていた。
2.例えば、鈴木(1998)pp.61-62

参考文献
半田知雄(1970)『移民の生活の歴史-ブラジル日系人の歩んだ道-』サンパウロ人文科学研究所
鈴木正威(1998)「コロニアはこれでよいのか-戦後移民の反省と提言-」『人文研』No.1サンパウロ人文科学研究所pp.59-65
「ボウレバード・リベルダーデ・プロジェクト」『ニッケイ新聞』WEB版, 2007/02/17
「東洋街の再活性化計画が浮上」『ニッケイ新聞』WEB版, 2007/10/31
“A Nova Liberdade”. In. Made in Japan No.126. São Paulo, JBC, 2007/3月, pp.44-51

*本稿の無断転載・複製を禁じます。引用の際はお知らせください。editor@discovernikkei.org

© 2008 Sachio Negawa

このシリーズについて

「なぜ日本人は海を渡り、地球の反対側のこんなところにまで自分たちの街をつくったのだろう?」この問いを意識しつつ、筆者が訪れたブラジルの日本人街の歴史と現在の姿を伝えていく15回シリーズ。