ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2008/02/17/

第1回 海外めざしたウチナーンチュ 19世紀末にハワイ・米国上陸

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日本ではここ数年、沖縄がブームだ。新垣結衣、山田優、オレンジレンジ……芸能界でも沖縄出身者が大活躍している。また、温暖な気候と自然に恵まれた環境を求め、本土から転居する人が後を絶たない。

ここアメリカには、ハワイを経由、または直接沖縄から移住してきたウチナーンチュ(沖縄の人)のコミュニティーが各州に形成されている。戦前に渡米してきたウチナーンチュの子孫、戦後、親戚や家族を頼って渡米してきた人、そしてビジネスや留学目的でやって来た人々。世代や渡米の目的は違えど、変わらぬ強い絆で結ばれたウチナーンチュの熱い息吹が感じられる。

世界に30万人はいるといわれる、沖縄出身の海外移民。最初に北米に渡ったのは、1889年にバンクーバーに上陸した河津恵三だといわれている。河 津はそのままカリフォルニアに南下した後、アリゾナに移り、定住した。その10年後の1899年、沖縄の移民の父と呼ばれる当山久三に率いられた26人が ハワイに植民。1912年までにハワイには1万人以上、アメリカ本土には150人が沖縄から移住している。沖縄からこれほど多くの人々が海外をめざしたの は、狭い面積の中での人口増加が限界に達し、食料難と就職難が大きな問題となっていたからだといわれる。1913年になると、外国人の土地所有を禁じた法 案がカリフォルニア州で施行され、さらに24年に全米で移民禁止法が法令化された。これにより、沖縄を含む日本からの移民は渡航先を南米へと変えることに なる。

しかし、それまでに定住していたハワイの沖縄県人は世代を重ねて増加する一方で、その一部はさらにアメリカ本土へと移住した。第2次世界大戦時に は、ペルー在住の沖縄出身者が大勢、アメリカ国内の強制収容所に移送されてきた。ペルーとアメリカ政府との契約によって、日本軍捕虜となっていたアメリカ 兵との交換要員にするのが目的だった。日本行きの船に乗ることを拒否した沖縄出身者は、戦後、ペルーへの帰国も許されなかった。米国内に残留した沖縄系を 含む日系ペルー人の多くは、身寄りを頼って南カリフォルニアに移住した。

戦後は、全米各地の沖縄系組織の主導により、米軍の管理下に置かれた沖縄から留学生を迎え入れるようになった。戦後初の留学生は、1949年に渡 米。3名がハワイ大学での1年間の学生生活を送った後、本土の大学に編入した。その後も、沖縄に駐屯していた米軍からの影響で、アメリカの親族を頼って渡 航を希望する若者が増加の一途をたどった。

2005年1月現在、北米における県人会の登録人数は、ハワイが9500人、後出する南カリフォルニアの北米沖縄県人会が3000、北カリフォルニアが370、ワシントンDCが300、アトランタが同じく300となっている。

*本稿はU.S. FrontLine January 2008 (3rd week) からの転載です。

© 2008 Keiko Fukuda

ウチナーンチュ U.S. FrontLine(雑誌) 日本 沖縄県 沖縄県民 遠山久蔵
このシリーズについて

福田恵子氏による第7回にわたるアメリカの沖縄系コミュニティのシリーズ。アメリカの日本人を対象に読まれている日本語無料週刊誌、U.S. Frontline からの転載。

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執筆者について

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

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