ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2007/11/23/copani-knt/

パンアメリカン日系人大会と海外日系人大会の合同大会開催による日系アイデンティティの発信

ブラジルサンパウロで7月14日から21日にかけて第48回海外日系人大会と第14回パンアメリカン日系人大会の合同大会が開催された。約500人 近い参加者が集った。ブラジルから245名、ペルー、パラグアイ、メキシコ、アルゼンチン、チリ、ボリビアなどのスペイン語圏からは156名、英語圏のア メリカ合衆国、カナダ、オーストラリアからは66名ほどの参加者であった。

今回はインドネシア、ベネズエラ、ニューカレドニアからも代表者が初めて参加した。約100世帯規模の日系社会であるウルグアイは、アルゼンチンとパラグアイの協力をもって2009年のパンアメリカン日系人大会の開催国となることに合意した。

サンパウロは人口約1900万人を抱える大都市であり、サンパウロ州にはは約150万人*の日系人がいるといわれており、日系人人口の大部分そこへ集中している。また、およそ31万人の日系ブラジル人はデカセギとして日本へ移住している。

今大会の会場であるホテル・ブルーツリー・コンベンション・イビラプエラは偶然にも日系ブラジル人であるアオキ氏が所有している。(アオキの訳は青い木=ブルーツリーである。)

7月は南米の真冬にあたる時期で、雨が多く(リマでは霧雨)、ロサンゼルスを発ってからの14日間の南米滞在期間中、サンパウロ、リオ・デ・ジャネ イロ、そしてイグアスの滝の路面は雨に濡れていた。しかしながらリオでは、気温は36℃(93℉)にまで上がった。コパカパーナビーチまでの市バスツアー は駆け足で通り過ぎ、ビキニの女の子を見ることはできなかった。

    注釈:
    2007年World Almanacのリストによると、ブラジルの人口は186,078,227人。ウィキペディア(オンライン百科事典)によると、ブラジルの人口の約 0.8%が日本人(ポルトガル語でnipo-brasilerio)で記載されている。この情報は、Juliana Imai, Dan Nakagawa, Fernando Takai and Luiz Gushikenによって書かれている。

同時通訳の採用

パンアメリカン日系人協会と海外日系人協会による合同代表者会議(同時通訳のお陰で私もこの会議への参加を楽しむことができた。)では、日系社会やそれぞれの国が抱える問題について議論された。日系のアイデンティティは国によって確かに異なるものだった。

一方、パンアメリカン日系人協会代表者会議(同時通訳なし)では、次期大会の開催についてや100万ドルの基金設立について、賛否両論の激しい議論 が交わされた。代表者としてチリのロベルト・ヒロセ氏とコロンビアのカルロス・ニシ氏の姿も見かけた。ペルー出身の米国パンアメリカン日系人協会会長を務 めるアルトゥロ・ヨシモト氏は、50席を抱える会場内で、カナダのアート・ミキ及びケイコ・ミキ両氏と席を交換し、ニシ氏の隣に着席した。

ヨシモト会長は、カナダのウィニペグ出身のミキ両氏、米国パンアメリカン日系人協会(東海岸)のリリアン・キムラ女史、米国パンアメリカン日系人協会のリア・ハヤシ女史と共に、英語圏枠の中心的役割を担った。

パンアメリカン日系人協会の会長であるフェリックス・カサマツ氏は、ある弁護士グループの話しに触れ、委員は国際的な非営利団体の基金を立ち上げる上で、制度面での仕組みをリサーチすることとした。

基調講演者の挑戦と希望

大会の主テーマ「海外日系社会の原点に立ち、その発展と役割を求めて」について、日本の上智大学教授、堀坂 浩太郎氏 は、シニア世代と若い世代の対話に焦点をあて基調講演を行った。

堀坂氏は、1957年5月に立ち上げられた海外日系人協会の歴史を辿った。毎年開催される海外日系人大会は、海外の日系ビジネスマンや日本で学ぶ (日系人)学生達にとって意義のあるものであった。1990年以降、参加者の中にブラジル出身のデカセギの姿も見られるようになった。海外日系人大会への 参加国数は、5カ国から、2001年には最多の21カ国に上った。

1999年、東京で行われた第40回海外日系人大会に日本天皇・皇后両陛下が出席された。以来、これらの大会には皇族の参加が恒例となった。

また、海外日系人協会は、アメリカのピース・コープにあたるJICA(独立行政法人国際協力機構)を多方面でサポートしてきた。当大会は、日系の人 々の社交の場としての役割も果たしてきた。最近では、 海外日系コミュニティの新しい発展と繁栄の為に、過去の成功例を基に日系人のための日本語プログラムの活性化や、1995年の阪神大震災に持ちこたえた旧 神戸移民センターの立て直しについても決議がなされた。センターの一部ではポルトガル語と日本語講座としても活用される。

変わりつつある「日系」の意味

堀坂教授によれば、単一民族国家である日本に於いて、「日系」という言葉は、「(海外)移民」と解釈されていたが、新しいイメージを持つようになっ たという。。1990年以降、その言葉は日本に在住し就労する外国生まれの日系人を指すようになった。また、アメリカに於いて「日系」は、日本人の先祖を 持つ全ての人を示す言葉であり、「国際結婚で生まれた子供達や、海外駐在後現地に残った日系企業の駐在員」も含んでいると指摘した。

上智大学ラテンアメリカ経済学者(主にブラジル)である堀坂氏は、安倍政権が着手した2025年までに新しいシステムと構造をたちあげる「イノベー ション25戦略」を挙げ、ハーバードの経済学者ジョセフ・シュムペーター的な考え「企業家による全く新しい経済活動を作り出す活動スタイルとしてのイノ ベーション」についても言及した。

堀坂教授は、日本に於ける政策立案者達は、「イノベーション」について議論をし始めたとし、大会中「自立した」日系人が、それぞれの国で培ってきた 知識を生かした貢献をし、日本の刺激となることを期待すると述べた。日本から見てちょうど世界の裏側に位置するサンパウロに召集された今大会が、日本と海 外の日系社会が相互に行き来する「知」のパイプラインを形成する可能性を明示し締めくくられるだろうとの考えを述べた。

パンアメリカン日系人協会会長にカサマツ氏再選

パンアメリカン日系人協会会長に再選されたフェリックス・S・カサマツ氏は、パンアメリカン日系人協会がブラジル国内の日系リーダー間の関係強化に 寄与し、日本の海外日系人協会と同じ立場で今大会に参加できたことに対し、また、世界中、特に数百もの日系協会があるブラジルから、パンアメリカン日系人 協会への好意的な理解を得ることができたことへ満足の意を表した。また、ベネズエラとハワイ地区は新たな協会メンバーとして招待されることとなった。

塚田氏が海外日系人協会理事長に

海外日系人協会理事長を務める元ブラジル大使の塚田千裕氏は、在日日系人や海外の日系人を取り巻く環境にふれ、日本の現状の変化について述べた。 「移住」は過去のものであり、「海外移民を援助する」時代から「日系人と協力し、成熟した多様な日系社会のあり方を歓迎する」時代になったと説明した。

島内憲駐ブラジル大使

駐ブラジル日本大使である島内憲は、アメリカからの在日日系人の今大会への参加と、日本の近代化への彼らの貢献を感謝した。島内氏は、「グローバリ ゼーションの促進」を伴う日系人大会は、日系社会における日系人同士、さらには日本との繋がりにおいて今後も重要な役割を担っていくだろうと説明した。

また、島内大使は、今回の合同大会のような機会を通して、日本政府は日系コミュニティの活動をサポートするつもりであることを付け足した。ついでで はあるが、島内大使は第二次世界大戦以前にOccidental Collegeを卒業し、1960年代にロサンゼルス総領事を務めた島内ハンク敏郎氏の長男である。

Mesangens - ブラジルからのあいさつ-

ブラジルのセルソ・アモリン外務大臣は歓迎メッセージで、2008年のブラジル移民100周年記念を楽しみにしていると述べ、「100周年を迎える にあたり、我々をエネルギー、生物工学、情報工学、ナノテクノロジー、そして空間工学による持続可能な発展へ駆り立てるだろう」ことを期待すると述べた。 また31万3千人に上る日本のブラジル人コミュニティーについて「海外に於ける3番目に大きいブラジル社会」と言及した。

ブラジルのパンアメリカン日系人協会及び、今大会の委員長であるノリタカ・ヤノ氏は、日本、アジア(インドネシア)、オセアニア(ニューカレドニ ア)からの代表者の参加に感謝し、ベネズエラとハワイによる初めてのパンアメリカン日系人大会への参加に感謝した。また、日系人同士が国家間でやり取りを し、情報交換や議論し合う機会を持つことは意義あることで、友情関係を深めることになると述べ、同時に「ブラジル文化に触れること」でもあると挨拶した。

日系社会からのレビュー

シアトル出身の四世であり、ポートランドのホーマー、ミキ・ヤスイ両氏の孫娘であるマリ・ハイマン氏は、アメリカからの唯一の総会講演者だった。ハ イマン氏はアメリカ日系人同士の、また日本出身者とのコミュニケーションの欠如を指摘し、その克服を訴えた。また、「我々は日系人であり、お互いを知る必 要がある。」と述べた。

ブラジルに於ける180万人の日系人の歴史は6世代に渡り、高齢化、ジェネレーションギャップ、親の期待から外れる若者、健康問題、経済問題に直面 していると、年輩の代表者が発言した。若者側は、特にブラジル国内の日本語教育分野や、「日本との国際的な企画に於いて、我々は手本である年輩者に耳を傾 ける。」と述べた。

日系ブラジル人が移住100周年の一環として、日本の若者への奨学金やホームステイのプログラムが国際交流基金やブラジル国内の各県人会で企画されている。また、野球、相撲、サッカートーナメント、ミス・コンテストが2008年に予定されている。

「団結していない」ベネズエラ

ベネズエラの代表者は、来年、日本人移民80周年を迎えることを楽しみにしているが、「ベネズエラの日系人らは団結していない」と述べ、二世のほと んどが日本語を話せないことに言及した。しかしながらベネズエラの若者は、「二世や三世は日系社会の支柱となっている」と明言した。

ペルーの日系社会には、日本語継承の問題があり、多くの若い日系人の多くはスポーツや演劇以外の日系関係の団体に所属することはないとのことだった。また、青年商工会議所に対して、三世が行動を起こせるよう、ネットワーク構築と支援の促進を奨励した。

メキシコでは、「二世がいかに伝統を若い世代に伝えていくか」ということが課題になっている。2006年の日本人移民110周年記念で公表された通 り、現在メキシコには2万5千人の日系人が在住している。また、第1言語がスペイン語の他人種との婚姻から生まれた人口も含めるとその数は7万人に上る。 1896年に初めて日本人が上陸したチアパス州にも未だに多くの日系人が住んでいる。メキシコの若者は、否定的な問題点に焦点を当てることよりも、「我々 は日系社会の未来を守る為、(素晴らしい日系社会の)夢を描くことに力を注ごう」と述べた。

商業援助を望むチリ

チリの日系人は高学歴で、職業的に日本の伝統を促進するための時間的余裕のない者が多く、、国内の日本企業の尽力が望まれている。

最初の日本人移民がブラジルを経由しアルゼンチンに入国したのは1908年のことである。現在、日系のデカセギらは日本から戻って来ており、学校(教育)へ貢献し、文化的繋がりを促進するため政府レベルで協力している。また、老人介護にも尽力している。

パラグアイの日系人口は7万人に上り、その多くは5つの農業移住地と4つの都市に住む。若者の多くは他の三世との出会いを強く望んでいる。大学レベ ルの高等教育を受けることを躊躇する者もいる中、多くは日本伝統の継承に意義と重要性を見出している。パラグアイから日本へのデカセギもまた、帰国の一途 にあり、より若い世代に日本語を教えることが彼らには期待されている。

ボリビアでは、日本語教育や日本文化継承を促進することで、日系人としてのアイデンティティを維持しているという。日系人は国内で「好意的に認知」されており、代表者は日系社会の問題は健康と教育面にあると付け加えた。

インドネシアの日本人像

インドネシアから参加した唯一の代表者ジャカルタ在住のヘル・S・エトウ氏はインドネシアには300程の異なる民族が住んでおり、日本語教育の重要 性の認知が「深刻な問題」であると述べ、徳島県の大学からのサポートは意義あるものだと評価した。また、バリには3,000人が住む日本人入植地があり、 コミュニティ内における交流は盛んであると報告した。

ある情報によると、1,200人の日本人が第二次世界大戦中オランダ領東インド諸島に残留孤児として置き去りにされ、120名の退役軍人がインドネシアの地に埋葬された。そして同大戦中1,900名の日本人がオーストラリアに抑留されたとのことだった。

この収容所内に拘束されていた他の二世らは、1943年2月に到着したインドネシアからの日系グループが、残飯やパン、バターなどを自分たちの服に 掴み入れる様子を見てとても驚き、「そんなことをする必要はここにはないと理解させるまで時間がかかった」と、シドニーのエヴェリン・スズキ氏は1998 年のサンノゼにあるトパーズ収容所での再会の集いで思い出したと語った。

多様なテーマのワークショップ

総会は6時間に及んだ。他の分科会では、アメリカからのアケミ・キクムラ博士、西村陽子氏が移住の歴史について、また、リリアン・キムラ女史が女性 の社会進出について、それぞれワークショップを持った。女性会議のパネリストは、ペルーからは合唱団団長、前在日パラグアイ大使婦人(エミ・カサマツ女 史)、ブラジル人映画監督(チヅカ・ヤマサキ女史)、最高裁判所判事(コンスエロ・モロミザト・ヨシダ女史)、サンパウロシンフォニーオーケストラの指揮 者の面々であった。ブラジル連邦軍大尉はパネルディスカッションを取りまとめ、「素晴らしい経歴を持つ女性達の話は興味深いものであった。」と付け加え た。

二重国籍のワークショップ(海外日系人の日本国籍留保)では、日本国籍に係る法律も取り上げられた。日本で生まれたが、日本側からもブラジル側からも認知を受けていない無国籍状態の子供を持つデカセギ労働者への影響について触れ、今後の対応について話し合われた。

軍隊に於ける日系人についての特別プログラム(日系退役軍人)が陸軍少将アキラ・オバラ氏によって取り持たれ、ブラジルの航空センターとエンブラエル社への視察が盛り込まれた。

日系医師のワークショップ(医師会)ではレナト・ヤマダ医師が議長を務め、日系人が入院する病院を2箇所訪れ、ワークショップはブラジル病院で行わ れた。ホテル・ブルーツリーでは日系歯科医のワークショップ(歯科会)が行われ、歯列矯正医師のジロウ・ヤナギモリ氏が中心となり、パンアメリカン日系歯 科医協会の立ち上げが提案された。

弁護士会、青年活動、日本語と日本文化、日本での就労、日本の歌の影響の分科会はリベルダージの文協(日伯文化交流協会)で開かれた。

土曜日の2時間にわたる閉会ディナーの席では、典型的なブラジル料理がバッフェスタイルで振る舞われ、10分野の分科会の要約が発表された。その 際、サンバの女性ダンサー達とバンドが予告無しでディナーの会場へ登場し、参加者は驚きに包まれた。コンガ演奏のかわりに、会場はすぐに写真撮影の嵐と なった。

2007年7月20日:日本開拓移民ゆかりの地、レジストロ市訪問

4日間にわたる大会のハイライトのひとつは、レジストロ市への日帰り訪問で、思い出に残るものとなった。レジストロ市は、サンパウロから南東へ 117マイル離れたところに位置し、サンパウロ州政府により「日本開拓移民ゆかりの地」と称されている。レジストロ市の人口は6万人を超え、うち10パー セントは日系人である。

ニューヨークより参加の米国パンアメリカン日系人協会(東海岸)会長リリアン・キムラ女史は、「お茶の栽培で有名なブラジル最初の日本人移住地レジ ストロ市を訪問し、3時間ほど滞在した。」と報告し、「ス (日本人が)スリランカの茶葉をパンの間にしのばせて国内に持ち込んだのが起こりだと説明を受けた。」と付け加えた。これは1935年のことだという。

茶葉の栽培には機械が導入されているが、1935年に持ち込まれた茶葉については、当時の栽培方法が受け継がれており、今でも大切に育てられ手摘み で収穫されている。代表者達は、斜面に生い茂る(レジストロ)最初の茶畑を見学した。パームヤシ、バナナ、レタス、白米、といった作物は、富裕層から貧困 層までブラジル人の主食となっており、この地域の主要作物でもある。

開拓移民一世への追悼行事である灯篭流し(河川に灯篭を流す行事)は、毎年行われており、その日は市役所の年間行事としても重要な日に位置づけられ ている。灯篭流しはレジストロ市西本願寺の住職によって執り行われ、続いて古くからの日本町の殿堂、セント・フランシス・ハビエル教会からは、日系のカト リック神父が祈りを奉げた。また、何名かのプロテスタント牧師もこれに続いた。

1500年代の植民地時代には金が発見された。(現在のレジストロ市のある)リベイラ谷では、探鉱者達は採掘した鉱物の届け出・登録 (registro:レジストロ)を、河港で行っていた。そのようなことから、この市はレジストロ(registro)市、と名付けられた。金の採掘の時 代が終わると、1900年代には農業と商業を通し、小規模の日系社会が築き上げられた。海外興業株式会社は、ブラジル最初の精米機を、レジストロで導入 し、(第二次世界大戦中を除く)1980年代まで倉庫や精米機の建設・設置に携わっていた。

レジストロの日本移民記念館として知られる二階建ての建物は、日本の名古屋市に近い犬山市の博物館兼テーマパーク、明治村に移築された。このテーマ パークは1965年にオープンした。フランク・ロイド・ライトによって設計され、1923年の関東大震災にも持ちこたえた帝国ホテル中央玄関部及びロビー は、明治村のパーク内に再現されている。

最終日、ブエノスアイレスの日系アルゼンチン人2世のアルフレド・タマグスク氏を訪問し、首都の大通り近辺での歓迎会となった。第二次世界大戦当 時、青年であったタマグスク氏は沖縄に取り残され、1950年代に帰国し、約100人の日系人が住むモレノ地域(ブエノスアイレスから西に約25マイル) で園芸家として成功を収めた。また彼は、花の栽培、卸し及び小売り業にも従事している。

「Viva-万歳-そしてありがとう」

パンアメリカン日系人大会と海外日系人大会の合同大会が終わり、サンパウロからメリーランドへ戻った。パンアメリカン日系人協会会長のフェリック ス・カサマツ氏は、代表者、参加者、招待者、そしてブラジルのパンアメリカン日系人協会会長であり、今大会の委員長を務めたノリタカ・ヤノ氏に対して感謝 の意を述べた。また、「ブラジルのような、大規模な日系人社会と多くの日系団体を抱えた国に於いて、このような大会を運営することは容易なことではな い。」と理解の念を表した。

パンアメリカン日系人協会は、率先して今回の合同大会開催を進めた。それについてカサマツ氏は、「今後も続けていきたい。」と表明した。また、今回 初めてアメリカ大陸の9カ国から、18人の若いリーダーが参加し、現存する日系社会の問題と未来について、年配者と話し合った。

参加者だけでなく、テレビやメディアからの好意的な報道や祝福を受け、カサマツ氏は、「我々は皆(この大会から)何かを得たのです。たくさんの国々 から大勢の参加者が集い、今大会は素晴らしい成功を収めました。我々はお互いの関係を強化し、結果的に日系社会に対する世評をも向上させたのです。」と述 べました。

また、パンアメリカン日系人協会は、ベネズエラ(参加国としては14番目となる。)と、米国ハワイ地区を新たなメンバーとして発表した。2009年 には、ウルグアイが第15回パンアメリカン日系人大会の開催地となり、その次の2011年には、ロサンゼルスもしくはハワイが開催地となる。

© 2007 Harry K.Honda

2007年 パンアメリカン日系人大会 パンアメリカン日系人大会
このシリーズについて

このシリーズでは、2007年7月18日から21日にブラジル・サンパウロで合同開催されたパンアメリカン日系人大会と海外日系人大会に於けるレポートやプレゼンテーションなどを紹介しています。

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執筆者について

1919年ロサンゼルス生まれ(自称アンジェリーノ)。1932年にメリノール学院を卒業。日系人記者として長いキャリアを持つ。1936年ロサンゼルス の羅府新報から始まり、サンフランシスコの日米新聞でも1年間活躍。第二次世界大戦中は国内で兵役に従事し、1950年にはロヨラ大学で政治学を学び卒 業。その後ハリー氏は2002年に退職するまで、日系アメリカ人市民同盟の週刊新聞、パシフィック・シチズンの編集者を務めた。2013年7月、93歳で死去。

(2013年7月 更新)

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