インタビュー
日本人病院と両親 (英語)
(英語)ええ、ファースト通りとフィケット通りの交差点にあった日本人病院のことは覚えてますよ。そうですね、日系社会にはそんな病院も必要だったんだと思います。だって、当時の日本人はほとんど英語が話せなかったので、いろいろな不安や心配の種になりますから。ということで、トーレンスだとか、サンタアナ、ガーデナのように東・西ロサンゼルスあたりに住んでいるある日本人コミュニティにとって、この日本人病院というのは随分大切な役割を果たしたと思います。アメリカ人用の病院と違って、随分気楽に行けましたから。 父はターナー通りにあった病院とフィケット通りにあった日本人病院に勤めていました。 父は家庭医と云うか、そうですね、内科、外科を全部診ていました。 母はハワイのカウアイ島出身で、最初は看護師になるつもりで出てきたのですが、たまたまターナー通りの病院に行きましてね。そこは看護師養成所と云うわけじゃなかったんですが、結局そこで働くことになって、父と知り合ったんです。 その頃はね、医者や看護師たち、そしてその家族みんながよく集まってパーティーとか、ピクニックをしていました。今でもよく覚えているんですが、あるピクニックで、先生達が寸劇をやりましてね。小道具なんかもきちんと揃えてね、先生達は白衣を着ているし、担架もありました。よく覚えているのは、その担架に乗っているのが父だったんです。それでね、父のお腹が非常に膨らんでいるんですよ。中に色々詰まってるみたいなんです。それで、他の先生達がその父のお腹を切り裂き始めるんです。上からも横からも。もちろん寸劇ですよ。そのうちお腹の中から、風船だとか取り出すんです。私はまだ子供でしたから、みんなが父を傷つけているんじゃないかと思って、怖かったですね。
日付: 2010年2月3日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: エイコ・マスヤマ、キャロル・フジタ、西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター