(英語)補償を受けるための当時の基準は、強制収容所に収容されていたかどうかでした。収容所には全員分の登録簿があり、名簿を見れば、補償対象になるかどうかがわかりました。もちろん収容所に入らなかったワシントン州東部やオレゴン州東部の人たちからは批判を受けました。第1軍事地帯は、州の西側半分で、東側半分は第2軍事地帯でした。カリフォルニアでは、ご存知のとおり両地帯の人々が強制収容所に収容されていたため、ワシントン州の人たちも準備をしていたのです。準備を指示する通達があり、彼らは、財産を手放し、スーツケースに荷物を詰め、支度はできていました。しかし、最終的な退去命令は下されなかったのです。
日付: 1998年7月1・2日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: ミッチェル・マキ、ダーシー・イキ
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター