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課題の規模 (英語)

(英語) そうですね、この問題全体の中では、補償金の額自体が最重要点だとは思っていませんでした。私たちが主張したかったのは、この件が合憲か否かと云うことです。そしてこの問題は、日系アメリカ人に限らず、(アラスカ先住民の)アレウト族の人々、ペルーやボリビアにいる日系ラテンアメリカ人達、そして一連の強制収容のプロセスに巻き込まれたその他のたくさんの人々に関係していました。また、大統領令9066のことだけでなく、外務省がやったこと、防衛省がアラスカで行ったこと、その他多くのことにも関係していました。ですから、我々を強制収容するという政府の行為が合憲か否かと云うことを問題視したかったんです。と云うことで、この問題は、かなり複雑で、入り組んでいたと言えますね。


日付: 1999年10月28日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: トム・イケダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ヘンリー・ミヤタケ氏は、1929年ワシントン州シアトルに生まれました。第二次世界大戦中まだ10代であったミヤタケ氏は、ピュアラップ集合センターに拘留され、その後アイダホ州ミニドカに強制収容されました。強制収容所でミヤタケ氏は、米国政府によるマイノリティの扱いを批判する論文を書き、その主張の正当性を訴えましたが、教師は論文の受け取りを拒否し、合格点を与えなかった為、ミヤタケ氏は卒業することが出来ませんでした。

当初、彼の考えは急進的なものでしたが、ミヤタケ氏は、70年代前半から始まった補償請求運動の最初の発起人の1人になりました。他の数名の日系人と共に、米国政府に対し、強制収容された日系アメリカ人への補償を求めるため、日系アメリカ人市民同盟シアトル支部にその計画案を準備したのもミヤタケ氏でした。

しかし1978年11月25日にピュアラップ集合センター跡地で開催された最初の「追憶の日」のイベントまでは、ミヤタケ氏の努力は、日系コミュニティから反発を受けていました。ミヤタケ氏が参画し、開催にこげつけたこのイベントは、過去の不正を正すために組織されたその後の補償請求運動において、日系社会を大いに活気づけるものでした。

ミヤタケ氏は、2014年9月16日、85歳で亡くなりました。(2015年4月)

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