ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/812/

宗教心へのきっかけ

戦争が終わりまして、そしてこの認識運動をして、火の玉のように飛んでおりましてですね、そしておる時に、私が今ご奉仕しております、自由メソジスト教会を創設をいたしましたニシズミ・マサヨシ牧師が、これは日本からおいでになった時に、私は地方の旅行を案内をしたり、通訳をしたりして、地方をまわった、そういう関係の人なんですよ。その人が、私に会うたびに、「木下君祈らにゃいけませんよ」って言ってくれました。でも、それは私は会うたびにね、そんなことがしておれるかと。祈ってるなんて。そしてもう自分はもうあれですね、命がけでその運動にやっておりました。

そして1946年、5年に終わりましたよね戦争は。46年の6月に彼は交通事故で亡くなりました。彼が事故で亡くなったっていうことを聞いたとたんにですね、いや、祈らにゃいかんということに気づいたんですね。自分は命がけでこうやってるけども、これはとても人間の心は私がどんなに説明して、理解してもね、心が了解しないんで。日本が敗戦だっていうことは、受け入れることができない。心が問題。これは人間の心の問題であると。人間の心は神以外にタッチのできない、一箇所である。私がどんなに理解して、そして彼らがそれを理解しても、心が言うこと聞かない。どんなにもう私が人を説得することができても、納得させることはできないんだということに気づきました。


日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

マサオ・キノシタ氏は、第1次大戦中、サントス港から耕地に入殖しました。他の日本人移民と共にサンパウロのコーヒー農園で働き、さらには殖民地開拓のいったんも担いました。慣れない土地で苦しい現実にさらされ、また学業に専念したい一心で、2回ほど植民地から逃げ出しますが、失敗。耕地へ戻されました。数年後、サンパウロ市で学校に通う機会にめぐまれ上京。仕事をしながら、学校にて法学を学びました。第2次大戦後は、負け組みの中心人物として、日本の敗戦をブラジルの日本人コミュニティに認識させようと運動を展開し、臣道連盟と対立しました。(2007年6月22日)

ジェームス・ヒラバヤシ

各家庭でのキリスト教徒の集会 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ビンス・オオタ

多文化に触れて(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

外間良広

ペロンに洗礼

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

西村 俊治

借金の取立てにうんざりしブラジル移民を決意

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

西村 俊治

渡伯初期の生活

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

西村 俊治

見よう見真似で物にした仕事

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

西村 俊治

ブラジル社会に恩返し-不足のテクニコを育成

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

児玉良一

世界を見るためにブラジルへ

笠戸丸移民

児玉良一

日本人初の運転手

笠戸丸移民

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

二木秀人

先輩に触発されブラジル移民を決意

一世教育者(1911年生)

二木秀人

ブラジルでの日本語教育

一世教育者(1911年生)

二木秀人

ブラジルでの50数年間を振り返って思うこと

一世教育者(1911年生)

パウロ・イサム・ヒラノ

デカセギに来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。