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殖民地での生活

その年にコーヒーの収穫を終わりまして、そして次にモンブカ殖民地に入りまして、あのマレッタ(マラリア)の非常に多い川の川縁に殖民地を開いて、それでカナ園(サトウキビ)を作ったわけですが、そこに入りました。

I: 何年おられたんですか?

そうですね、入りましたけれどもね。あの雨季になってもうセッカ時期(乾季)に入ったんですね。そして、家を建て、井戸を掘ったんですけども、雨季になったらばそれがみんな水に浸かってしまいましてね。またその上のほうに家を作り直して、井戸を掘りなおして、そしてそこに入ったりしまして、そして植え付けをしましたが、みんなマレッタで倒れてしまって、耕地のコロニアのほうへ帰っていきました。

私はそこへ朝早く、6時に出る汽車に乗って殖民地まで1時間ばかりかかって、そこに着くんですが、そこに通ってそして植え付けしたものの、草やなんか取りました。けれども、ついに私自身もフェリダ・バラーバ(ひどい傷)にかかりましてね、もう足を引っ張り、引きながら、この、そこに通ったようなことです。それで、帰りましてから、みんな寝とるんですね。熱を出して寝とりますから、帰ってまた夕飯を炊いて、みんなに食べさせ、それで翌日の汽車に乗るために弁当を作って、6時までに駅に出ると。そういうことをやっておりました。


ブラジル コーヒー 植民地化 モンブカ モンブカ殖民地

日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

マサオ・キノシタ氏は、第1次大戦中、サントス港から耕地に入殖しました。他の日本人移民と共にサンパウロのコーヒー農園で働き、さらには殖民地開拓のいったんも担いました。慣れない土地で苦しい現実にさらされ、また学業に専念したい一心で、2回ほど植民地から逃げ出しますが、失敗。耕地へ戻されました。数年後、サンパウロ市で学校に通う機会にめぐまれ上京。仕事をしながら、学校にて法学を学びました。第2次大戦後は、負け組みの中心人物として、日本の敗戦をブラジルの日本人コミュニティに認識させようと運動を展開し、臣道連盟と対立しました。(2007年6月22日)

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