ディスカバー・ニッケイ

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戦時中、日本帝国軍に従軍(スペイン語)

(スペイン語)当時の高校生や大学生にとって、海軍飛行隊に入隊しパイロットになることが憧れでした。私もその一人でした。入隊はしましたが、大変な訓練でした。アルゼンチン人を含めた多くの人はその状況をきちんと把握していないので、「洗脳されていたから入隊させられたんだろう」と言いますが、実は入隊の条件は厳しく、その試験は大変難しかったのです。私の仲間は二回も受けましたが入隊できず、三回目は指を切ってその血で「なぜ、自分は死ねないんだ」と書きましたが、それでも入隊はかなわなかったのです。誰でも入れるわけではありませんでした。死にたくても死ねなかったのです。 そして、7~8ヶ月の訓練をへて最前線に行けるようになります。集中訓練と言いますか、スピーディーな訓練でした。16歳ぐらいの少年がそうした考えを持ち、訓練にも耐えていた時代でした。今の時代は科学もすごく進歩していますし、あの時代とは比較にならないほど時代は変りましたよね。


国軍 大日本帝国海軍 アメリカ海軍 第二次世界大戦 軍隊

日付: 2006年9月18日

場所: アルゼンチン、ブエノスアイレス

インタビュアー: タケシ・ニシムラ、リカルド・ホカマ

提供: アルゼンチン日系センター

語り手のプロフィール

ルイス・ヤマダ氏は、1929年、福井出身の移民の両親のもと、ブエノスアイレスに二世として生まれました。ヤマダ氏は少年期に日本へ渡り、大戦中の日本を生き、戦後アルゼンチンへ戻りました。戦前、戦中、戦後の日本を体験しました。今日、ヤマダ氏は、アルゼンチン国内で最も権威ある組織の1つ、全アルゼンチン風景画学会(Instituto Argentino de Paisajismo)の代表を務めています。(2006年9月18日)

ユリ・コチヤマ

真珠湾攻撃の日(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

グレース・ウエハラ

収容所の補償運動の達成と教育(英語)

(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。

ワカコ・ヤマウチ

真珠湾攻撃後のカリフォルニア州オーシャンサイドでの日系アメリカ人学生としての経験(英語)

アーティスト・劇作家。(1924 - 2018年)

ロイ・H・マツモト

日本兵捕虜の中にいた自分の親戚(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

リチャード・コサキ

第2次大戦中の陸軍語学学校での教鞭(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

第2次大戦後の東京(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

フランク・ヤマサキ

ピュアラップ集合センターで失った青年期の能天気さ(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

フランク・ヤマサキ

徴兵拒否の決意(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

ジョージ・アズマノ

真珠湾攻撃後にアメリカ軍から除隊(英語)

アズマノトラベル創設者

ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

1942年10月の妹の死(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

フランク・ソギ

当時の収容所に対する認識(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)