ブラジルに日本様式の女学校を開校
その裁縫の先生としてね、田舎のほうへ行くにはね、ただ裁縫だけじゃダメでしょ。やっぱり先生となるからにはね、先生としてのね、資格が必要でしょ。そういうところからですね、あの女学校をですね、日本と同じような女学校を作ったわけですよ。あの、女学部っていうのをつくってですね。そしてそこで、いろいろね、日本語はね、中学校程度の。そこで日本語を教え、それからその裁縫もやり、それから料理も教え、それから地理も理科もね歴史もね、それから人体のあれとかね、それからいろんな衛生とかね、それから絵を教えたりね、絵をね。絵を教えたりね。そういう先生方がね、いっぱいね、お願いして。毎月それやってね、いっつも赤字赤字赤字でね、暮らしたんです。けれどもね、裁縫の生徒が多かったの。それどうやらこうやらね、やっていけましたけどもね、赤字になってもね、それだけ卒業してからですね、あの、それだけのいい、立派な人間として、送っていけたら、もう赤字でもいいと思ってね。それでね、経済の観念をなくしてね、教育していったんですよ。ですから、先生がいっぱいおりますよ。ね、書いてありますでしょ。大学でたような先生お願いしてね。日本から教科書をとって、そして教えたわけですよ。 それから今度は、もうだんだんだんだんとこのね、日本、お裁縫よりも日本語よりも、この大学に入る人が、ブラジル教育に、あんた方のように、ブラジルの教育に、どんどんどんどんと入ってく人が出てきたでしょ。これはね、もうこれからは日本語、裁縫いっかんじゃダメだとこう思って、ブラジル学校を開いたわけ。けれどもね、やっぱり初めは大変、生後が少なくて苦労しました。もう13か月分のお金も払えない。フェスタ・ジュニナの主催で、その儲かった金を13ヶ月のほうへ当てたりね。他から借りたら、バンコ(銀行)から借りたりしてね。どうやらこうやら、ブラジル学校開いてから、7,8年ぐらいまでは苦労しました。
日付:
場所: ブラジル
提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.
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