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収容所を出た後、シカゴでアパートを見つけることの難しさ(英語)

(英語)あちこちに「For Rent(空き部屋あり)」の表示が出ているのに、私達が行くと「ああ、もう他の人に貸してしまいました」と断られ、満足のいく結果が得られませんでした。そしてついにひとつ空き部屋が見つかり、女性が2階へ案内してくれた時のことです。私達は「これでやっと住む場所が見つかった」と大喜びました。ですが喜びもつかの間、その女性が部屋のドアを開けて振り返ったとたん、「あっ!」と声を上げたかとおもうと、顔をみるみる真っ赤にして「この部屋は他の人に貸してしまったのを今思い出しました」と言ったのです。

私達を2階に連れて行った時は、私達が日本人だということに気がつかなかったのでしょう。でも気がついたとたんに「この部屋はもう貸してしまった」と言い、階段を下りていなくなってしまいました。私達は「そんなの真っ赤なうそだわ!」と思いましたが、その時はもうくたくたに疲れていて、文句を言う気力さえ残っていませんでした。(当時は)そんな感じだったのです。私達は単にアパートを見つけることさえ出来なかったのです。


差別 対人関係 人種差別 再定住

日付: 2004年9月15・17日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ペギー・ニシムラ・ベインは1909年3月31日ワシントン州バションに生まれました。彼女の両親は熊本県出身です。6人兄弟の2番目として生まれた彼女は、17歳の時に最初の結婚をし、息子と娘をもうけました。

真珠湾攻撃の時は、弟の名義の3つの農場で両親の手伝いをしていました。その後、パインデール集合センターへ送られたあと、ツールレイク、ミニドカ収容所へと転送されました。ミニドカ収容所を出た後は、娘とともにシカゴへ移住しました。そこでは、収容所で身につけた写真の技術を使い、何年もの間写真スタジオにてコロリスト(写真へ色づけする人)として働いていました。最終的にはワシントン州の両親の近くへ戻り、現在もワシントン州で生活しています。(2004年9月17日)

Mia Yamamoto
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ミア・ヤマモト

人種差別が彼女を初のトランスジェンダーの弁護士に育てた

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

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