ディスカバー・ニッケイ

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日本在住の日系人をサポート

90年代に中南米から色々就労者、まあ当時出稼ぎ労働者と日系出稼ぎ労働者と言われていましたけれども、その人たちが大量に日本にやって来ていたわけですよ。僕は勿論、意識はしていましたけれども、そんなに沢山来ているっていうのは、まったく理解していなかったのですが、筑波にいたときも、その後もそうですが、スペイン語ができるという事、そして日本語もある程度上達していた訳ですから、その二つの言葉が出来るということは色々な企業や自治体から問い合わせが入るようになって来たわけですよ。裁判所もそうでしたし、警察当局からもそうでしたので、いろいろな単発な仕事ですけれども、非常に多く入って来て、通訳としてですね。後ちょっとした翻訳を、と。

そういうこともあって僕はちょっと当初予定していた専門分野を変更させてもらって、横浜国大で法律を専攻したのです。修士論文も労働法というのを専攻して、日本の民法や民事訴訟法やそういう分野を徹底的に勉強したのですね。そのお陰でやっぱり色々な活動ができるようになりましたし、ラテンアメリカから来るようになった日系人にサポートすることもできたわけです。


出稼ぎ 在日日系人 外国人労働者

日付: 2019年9月22日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1962年、アルゼンチン、ブエノスアイレス州のエスコバールに生まれる。エスコバール日本語学校へ通いほぼバイリンガル教育を受ける。大学生のときにマルビナス紛争が勃発、従軍して通信兵として任務を全うする。その後、ブエノスアイレスのサルバドル大学国際関係学部を卒業し、1990年国費留学生として来日。横浜国立大学大学院で労働法を専攻し修士号を取得。

現在は、日本でスペイン語の渉外法務翻訳、法廷通訳、放送通訳、さらにはJICA研修員オリエンテーション講師、静岡県立大でスペイン語、獨協大学でラテンアメリカ経済と法を教える傍ら多文化共生関係の講演を行っている。在日ラテンアメリカ出身の日系人などのサポートを行っている。(2020年2月)

セリア・オオイ

日系ブラジル人イメージに対する日本の影響 (ポルトガル語)

ブラジル日本移民史料館館長

ドリス・モロミサト

日系人のペルー社会への融合 (スペイン語)

詩人、沖縄系ペルー人 (1962年生)

田岡 功

パラグアイからのデカセギ者の現状

パラグアイ駐日大使(1943年生)

恩智 敏子 エレナ

大和市国際化協会のボランティアスタッフになったきっかけ(スペイン語)

在日日系ペルー人

恩智 敏子 エレナ

社会統合を促進するさまざまな参加方法(スペイン語)

在日日系ペルー人

恩智 敏子 エレナ

ペルー人子弟にとって、日本の学校に通うことの挑戦と試練(スペイン語)

在日日系ペルー人

恩智 敏子 エレナ

日本のペルー人子弟のアイデンティティ危機問題(スペイン語)

在日日系ペルー人

恩智 敏子 エレナ

デカセギ者としての移動によっておこる家庭崩壊(スペイン語)

在日日系ペルー人

パウロ・イサム・ヒラノ

デカセギに来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

日本に移住して苦労したこと

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

日本語の理解を深めるにつれ、日本社会に受け入れられる

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

デカセギから定住へ

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

リーマンショックを機に日本語のできるグラフィックデザイナー として独立

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

日本人へ帰化することについて

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

ブラジル出身であることを明確に

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。