(英語)それは月曜の朝のことでした。とても天気の良い、美しい日だったと記憶しています。学校に行く支度が整っていました。当時日本に夏休みはなく、8月も学校がありました。兄のケニーと私が身支度を整えて学校に向かって歩き始めると、大勢の子供たちが私たちの方に向かって学校から戻ってくるところでした。敵機が広島周辺に警報を出していると教えてくれました。その日は閉校となり、私たちは喜んで家へ帰りました。普段着に着替えた頃にはだいたい午前8時か8時を過ぎていて、その後また空襲警報が鳴りました。
警報が聞こえると、ケニーと私は家の屋根に上り、遠くから飛行機雲が近づいてくるのを見ていました。B-29は、いつも綺麗な飛行機雲を残していたのです。とてもよく晴れた、見晴らしの良い日でした。その時、カンカンに怒った祖母が台所から出てきて私たちに屋根から下りるよう言い付け、兄と私は渋々下りました。
そして兄のケニーは、ゲート、つまり門のある正面へ向かい通り抜けていきました。祖母は、私たちが屋根から下りるのを見届けると台所に戻って食器洗いを再開したのだと思います。私は、母屋の台所の隣にある、お風呂場のあった別の建物に1人で入っていきました。原爆が炸裂、または爆発した時、私はその建物の床下に潜り込んでいました。
(爆心地から)離れた郊外の人々は、ピカッと光った数秒後に大きな爆発があり、すさまじい爆風が吹きつけてきたと言っています。私がいた場所は爆心地から750メートルから1キロ、つまり3300フィートしか離れていませんでした*。爆心地から比較的近かったので、閃光と爆発の間隔は1秒もなかったと思います。
*注:ハワードは、実際は爆心地から1.3キロ(およそ4300フィート)の場所にいた。
日付: 2019年9月3日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: 三木 昌子
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター