ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1446/

プロとしてのキャリア(英語)

(英語)どういうわけか、僕は『タイム』や『ライフ』のデンバー特派員と知り合いになりました。『タイム』や『ライフ』はデンバーに事務局を置いていたのです。ワイオミングで上院議員選があった時、『ライフ』のカメラマンは皆シカゴやロサンゼルスに張り付いていました。それでニューヨークからデンバーの特派員にワイオミングの選挙に誰かを送るよう連絡が入ったのです。僕は行きたいかどうか聞かれたので、「もちろんです」と言って選挙戦の撮影に行き、2ページ半の記事ができました。それがきっかけでした。その後、すさまじい吹雪がコロラド、ワイオミング、ネブラスカを何週間も襲った時期がありました。僕はその撮影に駆り出され、偶然ワイオミングとコロラドの州境で凍った牛を見つけたのです。牛は完全に凍っていました。立ったまま、そのままの姿勢で凍っていたのです。その時の写真は今でもあります。写真はページ全面に掲載されました。その後どんどん仕事が増え、結果的に『ライフ』で働くことになりました。


ライフ誌 写真家 写真術

日付: 2009年12月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヒカル・カール・イワサキ氏(1923年生)はカリフォルニア州サンノゼに育ち、高校時代には学校新聞や卒業アルバムの制作に携わり、写真への興味を深めました。1941年12月7日の日本による真珠湾攻撃に続き、2月19日のフランクリン・ルーズベルト大統領による大統領令9066の発令を受け、イワサキ家はサンタ・アニタ集合センターに送られました。その後、一家はワイオミング州のハートマウンテン強制収容所に収容され、そこではカメラの所有は禁止されました。イワサキ氏が収容所内の病院でレントゲン写真の撮影技師の仕事に就くと、彼の能力は収容所新聞のトップの目に止まり、コロラド州デンバーにある戦時転住局(WRA)写真班の現像技師として働くことを勧められました。その後1年もしないうちにイワサキ氏はWRA専属カメラマンとして国内を自由に飛び回るようになり、何百人もの日系アメリカ人を撮影しました。彼が撮影したのは、収容所を出て米国各地に再定住しようとしていた人々でした。戦後、イワサキ氏はカメラマンとしての長いキャリアの一歩を踏み出し、『ライフ』、『タイム』、『スポーツ・イラストレイテッド』、『ピープル』他、国内の多くの雑誌社で働きました。

イワサキ氏は、2016年9月、93歳で亡くなりました。(2016年9月)

アーチ・ミヤタケ

家族との時間をほとんど持たなかった父(英語)

写真家・ビジネスマン。

ミツル・”ミッツ”・カタオカ

映像から写した最初のプリント(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)