ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1426/

ハリーとの出会い

私は眼を手術するために、鎌倉に行ったんです。鎌倉にいい眼の先生がいるというので、そこに行って。あの私、何ていうんですか、逆さまつげっていうんですか?普通のまつげはこっち出ますね。私のは全部内側に入ってくるんです。その時に、彼に会ったんです。それが1946なんです。

そして「この途中にとっても良い江ノ島というところがありますよ」と、そういうような話をしていたんですよね。そして、「江ノ島といったら、ちょうど鎌倉から藤沢に行く途中にあって、すぐ近いんだから行ってみましょうか」というようなことに話が弾んで、それから一緒に行ったんです。

その時のことを彼、よく覚えていて、サザエで、サザエのつぼ焼きを食べたっていうのが、すごく頭に・・・印象に残っているんですね。それで帰るときに、私もえらいことになっちゃったと思って、見も知らない外人とお話して、一緒にどっか遊びに行くなんて、とんでもないと思ってたんですよね。


1940年代 日本 鎌倉 神奈川県 戦後 第二次世界大戦

日付: 2012年1月26日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジーン・玻満子・シュナイダー(旧姓:天野)さんは、1925年、横浜に生まれる。1933年、ラテンアメリカでビジネスをする父芳太郎に連れられパナマで2年間過ごした。パナマへ残った父は、1942年に捕虜交換船によって日本へ戻ってきた。戦後、ラジオ局に勤めていた玻満子さんは、MISの一員として日本へ駐屯していたハリー・シュナイダーさんに出会う。1948年、日本でハリーさんと結婚し、1950年に戦争花嫁としてアメリカに渡る。その後、一女をさずかり、早いうちにアメリカの市民権も取得した。現在は、カリフォルニア州エンシニータスに在住している。(2014年9月)

テリー・ジャンゼン

おてんば娘(英語)

(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ

テリー・ジャンゼン

戦後の学校生活(英語)

(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ

ススム・“スス” ・イトウ

戦後母の元に帰る(英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

ジミー・コウ・フクハラ

除隊と種苗業の再開(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

トム・ユキ

日系人の帰還を歓迎しなかったサリナス(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

トム・ユキ

友好的だった戦後カリフォルニア州ロス・ガトス(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

トム・ユキ

先見と明と幸運でロス・ガトスに転居(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

ケイ・セキマチ

トパーズからシンシナティへ(英語)

アーティスト(1926年生)

タカヨ・フィッシャー

戦後シカゴで10代の日系アメリカ人として直面した偏見(英語)

日系アメリカ人二世、舞台、映画、テレビ女優 (1932年生)

タカヨ・フィッシャー

戦後の米国で人種的に自分が何者なのか混乱(英語)

日系アメリカ人二世、舞台、映画、テレビ女優 (1932年生)

ハワード・カキタ

アメリカで両親と再会する(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

アメリカ生活への適応(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

二宮 正人

両親がブラジル移住を決めたきっかけ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)