ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1425/

捕虜交換船で戻ってきた父

父はあんまりうちで話さなかったですね。いつでも何か書いたり、お客様が見えたりして、父と一緒に何か・・・家庭の団欒っていうのが余りなかったですね。とっても忙しい人でしたから。もういつでも彼はあっちに行き、こっちに行き、うちにいればお客様が見えたし。だからあんまり、父とあんまり座って話したという記憶はあんまりないんですけれども・・・。

えっと、彼が囚われて、アメリカに囚われて、それから交換船で帰ってきたっていうことは、みんな家族が全部、横浜の港まで迎えに行って。それでもですよ、ただ会った瞬間にもう彼はどこかに連れて行かれちゃって、お迎えに来た他の偉い方たちに連れて行かれちゃって、それっきりなんです。だから交換船で帰ってきたときに、皆が集まって写真を撮るというんで、みんな家族の人たちがデッキに座って、集まっているけれど、肝心の父がいないんです。彼はどこかに行って、他の人と話したり、何かして。それが、その写真がうちにあるんですけれど、肝心の父がいなんです。(笑)


交換船 日本 神奈川県 グリップスホルム号 第二次世界大戦 横浜 天野芳太郎

日付: 2012年1月26日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジーン・玻満子・シュナイダー(旧姓:天野)さんは、1925年、横浜に生まれる。1933年、ラテンアメリカでビジネスをする父芳太郎に連れられパナマで2年間過ごした。パナマへ残った父は、1942年に捕虜交換船によって日本へ戻ってきた。戦後、ラジオ局に勤めていた玻満子さんは、MISの一員として日本へ駐屯していたハリー・シュナイダーさんに出会う。1948年、日本でハリーさんと結婚し、1950年に戦争花嫁としてアメリカに渡る。その後、一女をさずかり、早いうちにアメリカの市民権も取得した。現在は、カリフォルニア州エンシニータスに在住している。(2014年9月)

マリオン・ツタカワ・カネモト

日本行きの捕虜交換船での記憶(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

天野美代子

捕虜交換船で強制帰国させられた天野芳太郎

天野博物館館長 (1929年生)

天野美代子

戦後、南米へ密入国を試みた天野芳太郎

天野博物館館長 (1929年生)

天野美代子

歴史好きだった天野芳太郎

天野博物館館長 (1929年生)

天野美代子

天野芳太郎の日本でのビジネス

天野博物館館長 (1929年生)

天野美代子

天野芳太郎との出会い

天野博物館館長 (1929年生)

天野美代子

天野芳太郎のマグロ漁船

天野博物館館長 (1929年生)

天野美代子

チャンカイ文化に魅せられた天野芳太郎

天野博物館館長 (1929年生)

阪根 博

天野芳太郎の南米進出

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

研究のためにビジネスに力を入れた天野芳太郎

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

戦後ペルーへ戻った理由

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

捕虜交換船で日本へ帰国

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

チャンカイ文化を選んだ天野芳太郎

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

世紀の大発見、シクラス

天野博物館事務局長(1948年生)