僕は自分の…どういうんでしょうねぇ、夢が終戦でパットおろされた。どこにも持っていきようがない怒りと情けなさっていう、こういう思いを子どもにはしてもらいたくない。だから自分の好きな方に進めばいいっていう。だからかっこよくいえば自由にやらせたっていうことでしょうけど、父親としてはひどく無責任だったと思ってますけど。
あの、自分が英語で難儀した分、今度は彼女たちが英語で教育を受けるわけですから、できたら日本語を忘れないでほしい。だから日本語をあれするためにはどうしたらいいのか、もちろん公立学校にいれて、その後日本語学校に連れて行くわけですけど。
僕はあの、さっき言ったように、何もかも無くした両親と幼い妹や弟の学費の面倒とかがありましたから、ともかく僕は金を稼がないと、稼いで日本に送らないといけない責任がありましたから。責任って言ったらおかしいけど、そういうことをしないといけないと思ってるんで、とても日本語学校に連れて行く暇は無いんですよね。一時は、セブンデイズ、三つ仕事を持って働いていましたから。子どもにとってはとても悪い父親だったと思いますけどね。
だから、メリノールスクールが日本語を教えてくれるっていう、そういう情報があったんで子どもをメリノールに入れましたけどね。ところがやっぱり、カソリックスクール、授業料が高いですよね。痛かったですけどね。(笑)
日付: 2012年1月31日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: ジョン・エサキ、西村 陽子
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター